第8話

 スマートフォンの画面で点滅するカーソルが、波留の心臓と同期するように脈打っていた。

 指はかすかに震えている。


 一文字、また一文字。

 それは嘘の欠片であり、未来への切符だった。


『将司、話したいことがあるの。明日、いつもの浜で会えないかな?』


 送信ボタンを押す指が、一瞬だけためらう。

 将司の顔が脳裏をよぎった。潮風に少しだけ焼けた髪。自分を見つめる、いつも穏やかな瞳。

 その瞳に、嘘を映すことができるだろうか。


 ――できる。やらなくちゃ。


 これは、斎藤さんが与えてくれた試練なんだ。

 夢を掴む人間は、過去に縛られていてはいけない。


 波留は目を閉じ、斎藤の言葉を反芻する。


『君の才能の本当の価値を、彼は理解できるかな?』


 その声は、心にまとわりつく罪悪感を、まるで甘い香りの煙のように散らしていく。

 彼の言葉だけが、私の価値を正しく照らし出してくれる。


 指先に力を込めて、画面をタップした。

 送信済み、という無機質な文字が、彼女の決意を肯定しているように見えた。


 すぐに、『わかった』という短い返信が届く。

 絵文字も、スタンプもない。将司らしい、素っ気ないけれど、確かな承諾の言葉。


 波留はスマートフォンを胸に抱きしめ、深く息を吸った。


 もう、引き返せない。


 翌日の放課後、七里御浜は西日に染まり、玉砂利がきらきらと黄金色に輝いていた。

 寄せては返す波の音だけが、二人の間の沈黙を埋めている。


 将司は少し離れた場所に立ち、海に向かってルアーを投げていた。夏のこの時期、浜辺からはシオ(カンパチの若魚)が狙える。

 彼のしなやかな腕の動き、リールを巻く真剣な横顔は、波留がスケッチブックに何度も描いてきた、見慣れた光景のはずだった。


 なのに、今はひどく遠く感じられる。

 まるで、この小さな世界で足掻くだけの、もう過去の存在のように。


「将司」


 波留が声をかけると、将司はリールを巻く手を止め、ゆっくりと振り返った。


「おう」


「あのね、話っていうのは……」


 練習してきた言葉が、喉の奥でつかえる。

 将司の真っ直ぐな視線が、罪悪感となって突き刺さる。


 ダメだ、こんな顔じゃ。私は、夢への一歩を踏み出すんだから。

 この嘘を真実に変えるためには、完璧に演じきらなくては。


 波留は一度唇を舐め、精一杯の笑顔を作った。


「決まったの! 東京の美術予備校の、夏期講習!」


 放たれた言葉は、自分でも驚くほど明るく弾んでいた。

 だが、その声にはどこか空々しい、不自然な高揚感が滲む。


 将司は一瞬、目を丸くした。

 彼の表情が、驚きから戸惑いへ、そしてその奥に寂しさの影がよぎるのを、波留は見逃さなかった。


 長年隣にいたからこそ分かる、微かな違和感。

 彼の瞳の奥で、凪いでいた海がさざ波立つような、微かな動揺が走った。まるで、自分だけが知らない遠い世界の言葉を聞かされたような、疎外感の色。


「……東京?」


「うん! 夏休みの間、ずっと。すごい有名な先生がいるところで、ずっと行きたかったの!」


 嘘に嘘を重ねる。

 一度口にしてしまえば、あとは簡単だった。


 この嘘をつき通すことで、私は特別な存在になる。


 将司は視線を足元の砂利に落とした。

 長い沈黙が流れる。波の音と、遠くで鳴くウミネコの声だけが響く。


 反対、されるだろうか。行くな、って言われるだろうか。

 もしそう言われたら、なんて返そう。


 ――『将司には分からないよ』。


 斎藤さんとの会話で使った、あの冷たい言葉が頭に浮かぶ。


 やがて、将司は顔を上げた。

 その表情にあったのは、波留が予想していたどんなものでもなかった。

 寂しさを無理やり笑顔の裏に押し込めたような、不器用で、痛々しいほどの微笑みだった。


「そっか……すごいな、波留。おめでとう」


「え……?」


「ずっと頑張ってたもんな。良かったじゃんか」


 将司はそう言って、にかっと歯を見せた。

 いつもの、太陽みたいな笑顔。でも、その光はどこか弱々しく、彼の目の奥には夕暮れの海のような影が差している。


 応援してくれるんだ……。


 安堵と同時に、チクリと胸が痛んだ。

 責められるよりも、反対されるよりも、彼の無条件の信頼と優しさが、嘘をついている自分には何よりも重い。


 いや、違う。

 この優しさこそが、私をこの小さな町に縛り付けていた鎖なのだ。


「……うん。ありがとう」


 俯いてそう言うのが、精一杯だった。


「いつから行くんだ?」


「来週の、終わりくらいから……。花火大会が終わったら、すぐ」


「そっか。結構、長いんだな」


「うん……夏休み、終わるまで」


 会話が途切れるたびに、気まずい沈黙が降りる。

 将司はまた海の方へ向き直り、力なくルアーを投げた。銀色のルアーが空を切り、遠くの海面に小さな水しぶきを上げる。


「俺、応援するよ。波留がやりたいこと」


 ぽつり、と将司が言った。


「……ただ、無理だけはすんなよ。東京って、人、多いんだろ」


「うん……」


「ちゃんと飯食えよ。あと、夜は危ないから、あんまり出歩くな」


 それは、まるで小さな子供に言い聞かせるような、不器用な心配の言葉だった。

 都会への無知からくる、自分では守れないことへの焦燥感が滲んでいる。


 その一つ一つが、波留の心に小さな棘のように刺さっていく。

 そして、その痛みが、奇妙な快感に変わっていく。


 違うのに。

 将司には私の夢の本当の大きさなんて、分かりっこない。

 私は、あなたに嘘をついて、私の才能を理解してくれる唯一の人のところへ行くのに。


 喉まで出かかった言葉を、波留は必死に飲み込んだ。

 今ここで本当のことを言えば、すべてが壊れてしまう。築き上げてきた関係も、そして、掴みかけた夢も。


「大丈夫だよ。しっかりしてるもん、私」


 そう言って笑う自分の声が、空々しく響いた。


 その日の夕食の席で、波留は両親にも同じ嘘を告げた。


「東京の美術予備校? 夏期講習にか?」


 父親が、驚きの声を上げる。

 母親は「まあ、すごいじゃない、波留!」と手放しで喜んだ。


「それでこそ、私たちの娘よ!」


 地元の漁協で働く父は、日焼けした顔をくしゃくしゃにして笑った。


「お金のことは心配しなくていい。昔から、お前のためを思って貯金してたんだからな」


「ええ、もちろんよ。夢のためなんだから、しっかり勉強してきなさい。東京は美味しいものもいっぱいあるだろうし、たまには息抜きもするのよ」


 両親の純粋な応援と愛情が、温かい湯のように波留を包み込む。

 それは心地良いはずなのに、今はまるで、息が詰まるような熱さだった。


 この純粋さを裏切る行為そのものが、私の自我を肥大させていく。

 この不快感こそが、私が選ばれた人間である証なのだ。


「ありがとう、お父さん、お母さん。頑張ってくるね」


 そう言って頭を下げた波留の表情を、二人は見ることができなかった。


 上京の準備は、着々と進んでいった。


 押し入れの奥から引っ張り出してきたキャリーケースに、夏物の服や下着を詰めていく。

 斎藤に「都会では、少しお洒落な格好の方がいい」と言われたのを思い出し、町で一番大きな衣料品店で、少し大人びたデザインのワンピースを何着か買った。

 将司と一緒なら、絶対に選ばないような服。


 この服を着た私を、将司は知らない。

 もう、あの頃の私ではないのだ。


 新しいスケッチブック。削りたての鉛筆のセット。これまで使っていたものとは違う、プロ仕様の画材。

 それらを鞄に詰めていると、胸が高鳴った。

 まるで、新しい自分に生まれ変わるための儀式のようだ。


 荷造りをしていると、机の上に置いてあった小さな写真立てが目に入った。

 去年の夏、新鹿海水浴場ではしゃぐ、自分と将司のツーショット。将司が釣った大きなシイラを二人で抱えて、満面の笑みを浮かべている。


 この笑顔。

 この、何も疑うことを知らない、真っ直ぐな笑顔。


 波留は写真立てを手に取り、その笑顔を見つめた。

 心臓のあたりが、きゅうっと締め付けられる。


 込み上げる痛みに耐えきれず、彼女は衝動的に写真立てを伏せた。

 パタン、と乾いた音が響く。


 それは思い出に蓋をする行為ではなかった。

 将司という存在を、私の新しい領域から排除するための、冷たい儀式だった。


 これでいい。


 過去は、ここに殺していく。

 私は、未来だけを見て進む。


 空になった本棚のスペースに、東京のガイドブックを並べた。

 スタジオ・エリュシオンがある街の地図には、赤いペンで印がつけてある。斎藤が「美味しい」と教えてくれたカフェや、有名な画材店の場所も。


 キャリーケースの蓋を閉めると、カチリ、と乾いたロックの音がした。

 それはまるで、熊野での穏やかな日々に、完全に別れを告げる音のように聞こえた。


 窓の外では、ヒグラシが甲高い声で鳴いている。

 夏の終わりを告げる、もの悲しい鳴き声。


 でも、波留の心は、これから始まる新しい季節への期待で満ち溢れていた。


 将司の寂しそうな笑顔も、両親の無垢な善意も、すべては東京という眩い光の中に溶けていく。

 罪悪感は、高揚感という甘い麻薬によって、今はもうほとんど感じなくなっていた。


 彼女はスマートフォンを手に取り、斎藤とのトーク画面を開いた。


『準備、進んでいます。斎藤さんにお会いできるのが、今からとても楽しみです』


 すぐに、既読がつく。


『僕もだよ、波留さん。東京で待ってる。君の才能が、本当の意味で開花する瞬間を、この目で見届けたい』


 その言葉は、甘い毒のように波留の心に染み渡り、抗いがたい甘美な命令となって、最後の躊躇いを消し去った。

 将司や両親の言葉など、もう霞んで聞こえない。


 そうよ。私の才能を分かってくれるのは、斎藤さんだけ。

 このチャンスを逃すなんて、絶対にできない。


 波留は、まだ見ぬきらびやかな世界を夢見て、そっと目を閉じた。


 熊野の深く、穏やかな夜が、古い自分を弔う少女の嘘と秘密を、静かに包み込んでいた。

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