第6話
夜のしじまに響くのは、単調な波の音と、パソコンの冷却ファンが発する低い唸りだけだった。
相生波留は、自室の椅子に深く身を沈め、暗い画面に映る自分の顔をぼんやりと見つめていた。ポニーテールにした髪は少し乱れ、数日間の寝不足で目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。
将司にあのメッセージを送ってから、三日が過ぎた。
送信ボタンを押した指先の冷たさを、今でも覚えている。
罪悪感がなかったと言えば嘘になる。彼の傷ついた顔が脳裏をよぎっては消えた。
でも、仕方なかったのだ。
波留は自分に言い聞かせる。
あのままじゃ駄目だった。
将司の優しさは心地良いけれど、それは熊野という小さな世界でしか通用しないぬるま湯だ。
あの優しさが、私の夢の足枷になるかもしれない。そんな暗い考えが、心の奥底で鎌首をもたげる。
斎藤さんが言うように、もっと外の世界を知らなければ、私の才能はこのまま腐っていくだけ。
これは、夢を叶えるために必要な痛みなんだ。
そう思うことで、胸の疼きに無理やり蓋をする。
将司からの返信は、なかった。
既読の表示すらつかないまま、彼女が送った冷たい言葉だけがトーク画面の底に沈んでいる。
それが逆に、波留の心をざわつかせた。
怒っているのか、呆れているのか。分からないことが、一番怖い。
窓の外からは、七里御浜の潮騒が聞こえてくる。
かつて心を落ち着かせてくれた子守唄のようなその音も、今はただ、自分のいる世界の狭さを告げる壁のように感じられた。
その時だった。
ディン、と軽やかな通知音が静寂を破る。
画面の右下にポップアップした通知。斎藤巧からのメッセージだった。
『相生さん、元気かな? 少し、面白い話があるんだけど』
彼の名前を見ただけで、心臓がとくんと跳ねる。
さっきまでの鬱屈とした気分が嘘のように晴れ、甘美な麻薬のような期待感が胸を満たしていく。将司への罪悪感を忘れさせてくれる、強烈な快感。
震える指でチャットアプリを開いた。
『面白い話、ですか?』
すぐに返信する。既読がつくまでの数秒が、永遠のように長い。
『うん。実はスタジオ・エリュシオン主催で、完全にクローズドなオンラインワークショップを開くことになったんだ。僕が全国から直接声をかけた、才能ある原石だけを集めた特別な場所だよ』
才能ある原石。特別な場所。
その言葉の一つ一つが、波留の乾いた心に染み渡っていく。
『もちろん、相生さんにも参加してほしいと思ってる。どうかな?』
断る理由など、どこにもなかった。
将司への罪悪感も、田舎にいることへの焦りも、この一瞬の高揚感の前では取るに足らない些細なことに思えた。
『はい! ぜひ、参加させてください!』
食い気味に返信すると、すぐに斎藤から満足げな顔文字と共に、ワークショップの詳細が送られてきた。
◇
三日後、オンラインワークショップの初日を迎えた。
波留は開始時刻の十分前からパソコンの前に座り、カメラに映る自分の顔を入念にチェックしていた。少しでも良く見せたくて、普段はあまりしない薄化粧までしている。
時間になると、ビデオ通話の画面に参加者が次々と表示されていく。
波留を含めて、参加者は五人。斎藤が進行役として中央に大きく映っている。
「それじゃあ、時間になったから始めようか。みんな、僕が声をかけた選りすぐりの才能たちだ。まずは簡単な自己紹介からお願いしようかな。じゃあ、東京の佐藤くんから」
斎藤の洗練された声がスピーカーから流れる。
最初に指名された佐藤と名乗る男子高校生は、都内の美術系高校に通っていると言った。背景には、画材や専門書がずらりと並んだ本棚が見える。
「はじめまして、佐藤です。コンテ撮の経験が少しあります。よろしくお願いします」
コンテ撮。聞いたことのない専門用語に、波留は内心どきりとする。
次に自己紹介をした大阪の女子生徒は、背景に自作のキャラクターポスターを貼り、SNSのフォロワー数が五千人いることをアピールした。
誰もが、自分にはない「何か」を持っているように見えた。
都会に住んでいるというだけで、それは圧倒的なアドバンテージに思える。自分の部屋の、何の変哲もない白い壁が、ひどくみすぼらしく感じられた。
「じゃあ、次は……三重の、相生さん、お願いできるかな?」
不意に名前を呼ばれ、波留は背筋を伸ばす。
「は、はい! 三重県の熊野市から参加しました、相生波留です。ずっと、自然の絵ばかり描いてきました。キャラクターを描き始めたのは最近です。よ、よろしくお願いします……」
声が上ずってしまった。
しどろもどろの自己紹介は、他の参加者の自信に満ちたそれに比べて、あまりにも頼りない。画面の向こうで、誰かが小さく鼻で笑ったような気がした。
自己紹介が終わると、斎藤は最初の課題を発表した。
テーマは『嫉妬』。この感情を、一枚のキャラクターイラストで表現せよ、というものだった。
波留は戸惑った。嫉妬。そんな黒い感情、まともに描いたことなどない。
いつも描いてきたのは、熊野の雄大な自然。そこには、こんなドロドロとした感情の入る隙間はなかった。
他の参加者たちは、すぐにペンタブレットを走らせる音を立て始める。その迷いのない様子に、波留の焦りは募るばかりだった。
数時間が経ち、作品の講評会が始まった。
画面に共有される他の参加者のイラストは、どれもレベルが高かった。歪んだ表情、影を使った巧みな演出、見る者の心をざわつかせるような構図。
「うん、佐藤くん。この目の表情、いいね。嫉妬に狂う一歩手前の危うさがよく出てる。ただ、少しありきたりかな。もっと君らしい毒が欲しい」
「鈴木さんのは、デザインは秀逸だね。ただ、感情表現としては少し弱い。もっとキャラクターの内面を掘り下げてみようか」
斎藤の批評は、的確で容赦がなかった。褒めながらも、必ず鋭い指摘を付け加える。
そして、ついに波留の番が来た。
彼女が描いたのは、俯き加減の少女が、自分の手で作り上げた綺麗な砂の城を、遠くから楽しそうにしているカップルを見ながら、静かに壊している、という絵だった。将司と自分の穏やかだった日常が、東京というきらびやかな世界によって壊されていくイメージを、無意識に重ねていたのかもしれない。
画面が静まり返る。重くなった空気を感じて、波留は全身から血の気が引いていくのを感じた。
「……なるほどね」
沈黙を破ったのは、斎藤だった。彼は細いフレームの眼鏡の奥で、面白がるように目を細めている。
「相生さん。君の絵は、他の四人とは全く違うアプローチだ」
その言葉に、他の参加者たちの視線が画面越しに突き刺さるのが分かった。
「直接的な憎悪や狂気じゃない。喪失感と、自分には手の届かないものへの渇望。静かな嫉妬だ。……荒削りだけど、僕は一番、心に引っかかるものを感じたよ」
え……?
波留は自分の耳を疑った。一番、心に引っかかる。
斎藤は続けた。
「君の絵には、まだ誰も踏み込んでいない聖域のような純粋さがある。それは君が熊野という場所で、汚れない自然だけを見て育ってきたからだろうね。素晴らしい武器だよ、それは。ただ……」
彼はそこで言葉を切り、値踏みするような視線を波留に向ける。
「その武器を、どうやって『プロの戦場』で使えるものに磨き上げるか。それが君の最大の課題だ。今のままじゃ、ただの綺麗な絵で終わってしまう」
厳しい指摘。だが、波留の心には、前半の賞賛だけが大きく響いていた。
他の誰とも違う。自分だけの武器。
飢えた心を餌で満たされるような感覚。それに従順になっていく自分への、微かな嫌悪感すら甘美だった。
斎藤さんは、この凡庸な田舎者の私に、特別な価値を見出してくれている。
その事実が、たまらなく甘い響きをもって、彼女の全身を駆け巡った。
初日のワークショップが終わった後、波留は興奮でしばらく椅子から立ち上がれなかった。
その夜、斎藤から個別のメッセージが届いた。
『今日は、お疲れ様。いきなりレベルの高い環境で驚いたかもしれないね』
波留は、待っていましたとばかりに返信する。
『はい……皆さんすごくて、私だけ場違いなんじゃないかって、すごく不安でした』
『はは、正直でいいね。でも、僕が言ったことはお世辞じゃないよ』
斎藤は、他の参加者たちの名前を挙げ、それぞれの長所と、そして致命的な欠点を的確に指摘してみせた。
『佐藤くんは技術はあるけど、オリジナリティがない。鈴木さんは器用貧乏で、心に響くものがない。彼らは都会の空気に染まりすぎて、良くも悪くも『ありきたりな優等生』なんだよ』
その言葉には、どこか他の参加者たちを見下すような、冷たい響きが感じられた。
だが、今の波留には、それが心地よくすらあった。
『でも、相生さんは違う。君の絵には、まだ磨かれていない、本物の輝きがある。今日の参加者の中で、一番伸びしろがあるのは間違いなく君だ。僕には分かる』
君だけは違う。
その言葉が、波留の心を完全に掴んで離さなかった。
集団の中で感じた劣等感を慰め、その上で「その他大勢」とは違う特別な存在だと認めてくれる。斎藤巧という男は、人心掌握の天才だった。
『ありがとうございます……! 斎藤さんにそう言ってもらえると、すごく、自信になります』
『自信を持っていい。君は、僕が選んだんだから』
その言葉は、まるで魔法の呪文のようだった。
将司に拒絶されたことで生まれた心の空洞に、斎藤の言葉が隙間なく注ぎ込まれていく。
もう、彼なしではいられない。彼に認められることだけが、自分の価値を証明する唯一の手段なのだと、波留は本気で思い始めていた。
ワークショップは、それから数日間続いた。
波留は毎日、他の参加者とのレベルの差に打ちのめされ、そして夜になると斎藤からの個別のメッセージに救われる、というサイクルを繰り返した。彼の甘い言葉と的確な指導は、強力な麻薬のように彼女の思考を侵食していく。
いつしか、将司のことを思い出す時間はほとんどなくなっていた。
たまにスマートフォンの通知がないか確認しても、そこには何の変化もない。
そのことに、安堵している自分がいた。
小さく胸は痛んだけれど、それ以上に、将司という存在から解放されたような、奇妙な軽やかさを感じていた。
今は目の前の課題に集中しなくちゃ。将司のことは、夢を叶えてから、ちゃんと向き合えばいい。
そう自分に言い訳をして、思考から追い出した。
そして、ワークショップの最終日。
最後の課題の講評会が、厳かな雰囲気の中で進んでいく。
「……以上で、今回のワークショップは終了だ。みんな、この数日間で大きく成長できたと思う。この経験を糧に、これからも頑張ってくれ」
斎藤が締めくくりの言葉を述べ、参加者たちが「ありがとうございました」と口々に礼を言い、画面から退出していく。
波留も「お疲れ様でした」と頭を下げ、通話を切ろうとした、その瞬間だった。
画面のプライベートチャット欄に、短いメッセージがポップアップした。
斎藤巧からのメッセージだ。
『相生さん、ちょっとだけ残れるかな?』
心臓が、大きく跳ねた。
『君にだけ、どうしても伝えておきたい特別な話があるんだ』
他のメンバーが一人、また一人と画面から消えていく。
やがて、広いバーチャル空間には、東京の洗練された書斎を背景にした斎藤と、熊野の小さな自室にいる波留の二人だけが残された。
画面越しの斎藤は、それまでの講師としての顔とは違う、どこか親密な、それでいて底知れない何かを秘めた笑みを浮かべていた。
それは波留の心の奥底に潜む「特別な関係」への渇望を見透かし、禁断の領域へと誘うような、計り知れない何かを秘めた表情だった。
スピーカーから聞こえる彼の息遣いが、やけに生々しく耳に響く。
これから、一体どんな話が切り出されるのだろう。
期待と、不安。そして、禁断の果実に手を伸ばすような、破滅的な高揚感。
抗えない運命を受け入れるかのように、波留は固唾を飲んで、彼の次の言葉を待っていた。
窓の外で、遠雷のように波がごう、と鳴った。
それは、これから始まる嵐の、確かな予兆だった。
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