第5話
三日月の細い光さえ、分厚い雲に閉ざされた真夜中。
熊野の町が深い眠りに沈むなか、波留の部屋だけが、液晶モニターの青白い光に侵されていた。カフェインと異常な高揚感が、悲鳴を上げる肉体を無理やり動かしている。
ヘッドフォンから流れ込む斎藤巧の声は、蜜のように甘く、脳の芯を痺れさせる毒のように、波留の思考へ染み渡っていく。
それは抗いがたい精神的な快楽となって、彼女の理性を少しずつ溶かしていた。
『……そのハイライトの入れ方、いいね。疾走感が際立つ。でも、もう少しだけ……そう、アスファルトに反射するネオンの映り込みを、キャラクターのブーツに描き込んでみて。世界の解像度が、ぐっと上がるから』
「……はいっ」
かすれた声で返し、波留はペンタブレットを握る指先に意識を凝らす。
斎藤の指示通りに線を一本、描き加える。
ただそれだけで、絵の中の少女が、まるで本当に雨上がりの都会を駆け抜けているかのような、生々しい実在感を帯び始めた。
魔法だ、と思った。
この人は、私の絵に命を吹き込む方法を知っている。
これまで描いてきた熊野の穏やかな自然とは、何もかもが違う。
情報量の洪水、無機質な直線、人工の光が乱反射する複雑な世界。
最初は戸惑うばかりだった「都会の雑踏を疾走するキャラクター」という課題は、今や彼女にとって至上の快楽へと変わっていた。
斎藤が与えてくれる知識を吸収するたび、自分が新しい人間に生まれ変わっていく。
昨日までの自分は、この小さな町の、狭い価値観の中に閉じ込められた雛鳥だったのだ。
ふと、窓の外が白み始めていることに気づく。七里御浜の向こうから昇る朝日の気配が、部屋の闇を薄めていた。
『……そろそろ時間かな。すごい集中力だったね、相生さん。最後まで、よく頑張った』
斎藤の労りの言葉に、張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
「……できました」
ほとんど吐息のような声で呟き、完成したイラストデータを送信するアイコンをクリックした。
クリック音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
全身から力が抜け、椅子にもたれかかる。三徹目の身体は鉛のように重く、目の奥がずきずきと痛んだ。
『お疲れさま。データ、確かに受け取ったよ。……すぐにでも感想を伝えたいところだけど、僕もこれから会議なんだ。悪いけど、少し時間をくれるかな?』
「……はい。もちろんです」
『じゃあ、また後で連絡する。本当に、よくやったね』
通話が切れると、部屋はしんと静まり返った。
モニターの光が消え、現実の、見慣れた自分の部屋が姿を現す。散らかった画材、飲み干したエナジードリンクの空き缶。
波留は、まるで夢から覚めたような心地で、ぼんやりと窓の外を眺めた。水平線が燃えるようなオレンジ色に染まっている。
将司が、もう浜辺に立っている時間だろうか。
彼の顔を思い浮かべた瞬間、胸の奥を抉るような鋭い痛みが走った。約束を破ったまま、連絡すらしていない。
裏切り、という言葉が頭をよぎる。その痛みは一瞬、彼女を現実に引き戻そうとした。
でも、これは必要な犠牲だ。
将司との穏やかな時間は心地良い。でも、それはぬるま湯だ。ここに浸かっていたら、私は腐ってしまう。
斎藤の言葉が、脳内で再生される。彼の声がもたらした高揚感が、罪悪感をじわじわと麻痺させていく。
斎藤さんだけが、私を本当の世界に連れて行ってくれる。
波留は罪悪感を振り払うように目を閉じると、ベッドに倒れ込み、泥のように深い眠りに落ちていった。
◇
その日の放課後、将司は昇降口で波留を待っていた。
メッセージを送っても既読にすらならない。昨日の夜、彼女の部屋の明かりが朝方までついていたのを知っている。
何かあったのか、それとも、ただ避けられているのか。確かめなければ、前に進めない気がした。
やがて、人波の中から見慣れたポニーテールが現れる。
しかし、その姿に将司は息を呑んだ。
「……波留」
声をかけると、波留はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを振り向いた。
「……将司」
その顔は青白く、目の下にはくっきりと隈が刻まれている。いつも夢と好奇心で輝いているはずの瞳は、どこか焦点が合わず、虚ろに揺れていた。
まるで生命力を吸い取られたかのように、痛々しい。
「お前、大丈夫か? すごい顔色だぞ」
思わず駆け寄ると、波留は一歩、後ずさった。
その小さな仕草が、彼の胸に冷たい刃のように突き刺さる。
「……大丈夫。ちょっと、夜更かししただけだから」
「夜更かしってレベルじゃねえだろ。ちゃんと寝てるのか? 飯は?」
畳みかけるように心配の言葉をぶつける。それは、幼い頃から変わらない、彼なりの不器用な愛情表現だった。
しかし、今の波留には、その気遣いが自分の才能を理解できない人間の無神経な干渉にしか聞こえなかった。
「……うるさいなあ。平気だって言ってるでしょ」
苛立ちを隠せない声に、将司は言葉に詰まる。
そんな彼の戸惑いを意にも介さず、波留はポケットからスマートフォンを取り出した。その画面が光った瞬間、彼女の表情が一変する。
虚ろだった瞳に、熱に浮かされたような狂信的な光が宿った。
「ごめん、将司。私、急ぐから」
「待てよ、波留!」
将司が腕を掴む。その手は、驚くほど簡単に、そして力強く振り払われた。
「離して! 大事な連絡なの!」
波留の目は、もう将司を見ていなかった。
画面に映る『斎藤巧』という名前に、その意識のすべてが吸い寄せられている。
斎藤からのメッセージ。『フィードバックの準備ができた。今から通話できるかな?』という、短い一文。
それだけが、今の彼女にとっての世界のすべてだった。
将司は、呆然と立ち尽くす。
波留が、自分から離れていく。物理的な距離ではない。魂が、心が、手の届かない場所へ猛スピードで走り去っていく。
彼女が振り向きもせず校門を出ていく背中を、ただ見送ることしかできなかった。
◇
自宅に駆け込むと、波留は自分の部屋に飛び込み、乱暴にドアを閉めた。
制服も着替えず、PCの前に座ると、震える指でビデオ通話のボタンを押す。
数秒後、画面に斎藤の姿が映し出された。細いフレームの眼鏡の奥で、値踏みするような目が冷静にこちらを見ている。
『やあ、相生さん。学校、お疲れさま』
「斎藤さん……! あの、課題、どうでしたか……?」
逸る気持ちを抑えきれず、前のめりに問いかける。
斎藤は、わざとらしく少し間を置いてから、ふっと息を吐いた。
『……まず、最初に言っておく。この課題を、たった数日でこのレベルまで仕上げてきた君の情熱と集中力は、素晴らしいの一言だ』
全身の血が沸騰するような喜びが、波留を包んだ。
だが、斎藤はすぐに表情を引き締める。
『……だけど、プロの視点から見れば、まだまだ甘い』
天国から地獄へ突き落とされたような衝撃。
斎藤は画面共有機能を使って、波留のイラストを映し出す。そして、赤いペンで無慈悲なまでに修正点を指摘し始めた。
『まず、パース。二点透視で描いているけど、この疾走感を出すなら、もっとダイナミックに煽りの構図を使うべきだ。地面近くにもう一つ消失点を設定して、三点透視に切り替えるだけで、画面の迫力が段違いになる』
『一番の問題は、光と影だ。ネオンの反射を描き込んでいるのは褒めたけど、光源が多すぎるせいで、どこが主光源なのか曖昧になっている。結果、立体感が死んでいるんだ。一番強く当てたい光を決めて、それ以外の光は情報として整理しないと、ただごちゃごちゃしただけの絵になる』
斎藤の指摘は、一つ一つが的確で、ぐうの音も出なかった。
自分では完璧だと思っていた絵が、未熟で稚拙な落書きのように思えてくる。悔しさと恥ずかしさで、涙が滲んだ。
打ちのめされ、うつむく波留の様子を見計らったかのように、斎藤の声がふっと優しくなる。
『……落ち込んだかい?』
「……はい。私の絵なんて、全然ダメなんだって……」
『違うよ、相生さん』
斎藤は、諭すような穏やかな声で言った。内心の愉悦を隠しながら。
『僕がこれだけ厳しく言うのは、君に本物の才能があるからだ。どうでもいい相手には、こんなに時間は使わない。君の絵には、人の心を掴む、強い『引力』がある。これは、技術だけじゃどうにもならない、天性のものだ』
アメとムチ。
そのあまりに巧みな使い分けに、波留の心は完全に掌握されていた。絶望の底からすくい上げられるような感覚。
この人だけが、私の価値を分かってくれる。
『ただね……』
斎藤は、そこで一度言葉を切った。眼鏡の位置を直し、真っ直ぐに画面越しの波留を見つめる。
『君の絵には力がある。でも、致命的に『世界』が狭い』
「……世界が、狭い?」
『そう。君が見てきたもの、感じてきたものだけで、絵を描いている。熊野の自然は素晴らしい。その感性は君の武器だ。でも、それだけじゃダメなんだ。都会の喧騒、人の欲望が渦巻く淀んだ空気、最先端のクリエイティブ……そういう、君がまだ知らない世界に触れない限り、君の才能は宝の持ち腐れで終わってしまう』
斎藤の言葉は、波留が心の奥底でずっと感じていた焦りやコンプレックスの、一番柔らかい部分を的確に抉り出した。
この町から出たい。
もっと広い世界を見たい。
私の絵は、こんな場所で終わるべきじゃない。
その渇望を、東京の、本物のプロが肯定してくれた。
『もっと外の世界を知るべきだ、君は』
その一言は、神の託宣のように波留の魂に響いた。
「……どうすれば、いいんですか?」
気づけば、彼女は懇願するように問いかけていた。
斎藤は、すべてを見透かしたように満足げに口角を上げた。その冷静な目の奥に、操る者だけが持つ愉悦の光がちらついた。
『その話は、また今度ゆっくりと。……それより、彼氏さんとは、ちゃんと話したのかい?』
不意に将司の名前を出され、波留の心臓が跳ねる。
「……いえ。まだ……」
『そうか。……まあ、無理もない。君が見ている世界と、彼が見ている世界は、もう違ってきているんだろうからね。君の才能の本当の価値を、地元の優しいだけの彼が理解するのは、きっと難しいだろう』
斎藤は、残酷なほど優しい声で、二人の間に決定的な楔を打ち込んだ。その言葉には、将司のささやかな夢を「小さな世界の遊び」と見下すような、ねっとりとした優越感が滲んでいた。
波留は、何も言い返せなかった。
斎藤の言う通りだ、と思ったからだ。
将司の優しさは、今の私には足枷でしかない。
彼には分からない。この焦りも、苦しみも、その先に見える輝かしい夢も。
通話を終えた後、波留はしばらくの間、動けなかった。
窓の外は、すっかり夕暮れの色に染まっていた。
スマートフォンの通知ランプが点滅している。将司からのメッセージだ。
『大丈夫か? 何かあったなら、言えよ』
その短い文面が、今の波留にはひどく無神経で、的外れなものに思えた。
彼女の指が、通知を消すために画面をなぞる。一瞬、指先にためらいが浮かぶ。罪悪感が、最後の抵抗のように胸を締め付けた。
だが、すぐに斎藤に認められた高揚感がそれを上書きする。
迷いは消えた。彼女は、決然とした手つきで返信を打った。
『心配しないで。私のことだから。それより、将司には分からないと思うから、もう構わないで』
送信ボタンを押す。
これでいい。これで、前に進める。
彼女は自分にそう言い聞かせた。
◇
ピロン、と軽い通知音が鳴り、将司はポケットからスマートフォンを取り出した。
夕方の七里御浜。打ち寄せる波の音だけが響く浜辺で、彼は一人、キャスティングの練習をしていた。波留のことが気になり、釣りにまったく集中できなかったからだ。
画面に表示されたメッセージを読んだ瞬間、将司の呼吸が止まった。
『将司には分からないと思うから、もう構わないで』
世界から、音が消えた。
短い文章に込められた拒絶の刃が、彼の心を深く、深く切り裂いた。
分からない。
そうかもしれない。東京のことも、アニメのことも、俺には何も分からない。
でも、お前が辛そうな顔をしているのは、分かる。
お前が無理をしているのは、分かる。
ただ、心配だった。それだけなのに。
その言葉は、彼の存在そのものを否定する響きを持っていた。俺は、波留の夢を理解できないどころか、彼女の足枷にすらなっているのか。
返す言葉が見つからなかった。
スマートフォンを握りしめる手に力がこもる。指の関節が白く浮き立ち、爪が手のひらに深く食い込んだ。肉体的な痛みが、心の絶望をわずかに紛らわせる。
いつの間にか、波留との間に透明な壁ができていた。
そして今、その壁は彼女自身の手によって、分厚く、冷たいコンクリートの壁へと塗り固められたのだ。叫んでも、叩いても、決して届かない絶望的な隔たり。
ざあ、と寄せる波の音が、ひどく冷たく、彼を突き放すように聞こえる。
遠くで、漁から戻る船のエンジン音が響く。
穏やかで、ずっと変わらないと思っていた熊野の日常。その日常が、音を立てて崩れていく。
どうしようもない無力感に、将司は膝から崩れ落ちた。
砂を握りしめたまま、静かにオレンジ色を失い、深い藍色に沈んでいく水平線を、いつまでも見つめ続けていた。
それはまるで、二人の未来と、彼の希望そのものが、冷たい海の底へと沈んでいく光景のようだった。
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