第4話

 斎藤からの返信は、夜の静寂を切り裂く甲高い通知音と共に、ほとんど間を置かずに届いた。


『当然のことをしたまでだよ。才能あるクリエイターが、道半ばで夢を諦める……そんな悲劇を、僕は見たくないだけだ』


 その文章は、まるで魔法の呪文のようだった。


 乾ききってひび割れた波留の心に、温かい光がじんわりと染み込んでいく。

 斎藤の声が、耳元で直接囁いているかのような錯覚さえ覚えた。


 先ほどまでの絶望が嘘のように、全身に力がみなぎってくるのが分かった。


『いくつか、君の助けになりそうな資料を送る。焦らなくていい。君のペースで、じっくり見てみて』


 立て続けに送られてきたのは、海外の有名アニメーターの作画動画や、人体構造を解説する専門サイトのURL。


 どれも、波留が今まで知らなかった、プロの世界の入り口を示すものばかりだ。


 クリックするたびに、新しい知識が洪水となって流れ込んでくる。


 筋肉の複雑な動き、布の自然なしわの寄り方、疾走するキャラクターの重心移動。


 熊野の自然を描くだけでは決して辿り着けなかった、圧倒的な技術の結晶。


 ――すごい。


 これが、プロの世界。

 私が、足を踏み入れようとしている場所。


 波留はヘッドフォンをつけ、外界の音を完全にシャットアウトした。


 そうすることで、明日将司と交わした約束を破ることへの微かな罪悪感も、この田舎町の穏やかな夜の音も、全てを意識の外へと追いやることができる。


 聞こえるのは、動画の解説音声と、自分の心臓の鼓動。

 そして、ペンタブレットの芯が板を擦る、乾いた音だけ。


 将司が知る由もない、自分だけの特別な世界。


 彼を置き去りにして、自分だけが新しい高みに向かっている。

 その背徳的な高揚感が、波留の指先を微かに震わせた。


 斎藤巧という男がくれた、たった一本の蜘蛛の糸。


 それに必死でしがみつき、奈落の底から這い上がろうと、彼女は無我夢中になった。


 時間の感覚が溶けていく。


 窓の外が白み始め、鳥のさえずりが聞こえてきても、波留の意識はモニターの中に深く沈んだままだった。


 彼女の瞳に映っているのは、もはや熊野の穏やかな朝焼けではない。


 モニターの中に広がる、目も眩むようなコンクリートジャングルと、そこを駆け抜けるキャラクターの残像だけだった。


 ◇


「……ごめん、将司。今日、やっぱり行けなくなった」


 土曜の朝。

 将司が愛用のルアーロッドにリールを取り付けていると、スマホが短く震えた。


 画面に表示された波留からのメッセージに、彼の指がぴたりと止まる。


 今日は二人で、少し足を延して尾鷲の漁港まで釣りに行く約束だった。

 最近、アオリイカが釣れ始めたと聞いて、将司がずっと楽しみにしていたのだ。


「課題が、まだ全然終わらなくて……。本当にごめん」


 追いかけるように届いたメッセージには、申し訳なさが滲んでいた。

 だが、将司の胸に広がったのは、心配よりも先に、ずしりと重い失望感だった。


 また、課題か。

 あの東京の男から出されたという、課題。


 俺の存在は、もう彼女の夢の邪魔でしかないのか。


 ここ数日、波留はその話ばかりだった。


 学校にいる時も、休み時間になれば参考書を広げ、指先を汚しながらクロッキー帳に何やら描き込んでいる。


 以前のように、他愛ない話で笑い合う時間は、目に見えて減っていた。


『分かった。無理すんなよ』


 将司は、それだけを打ち返した。


 本当は聞きたいことが山ほどあった。

 「いつ終わるんだ」とか、「俺より大事なのか」とか。


 だが、そんなことを言えば、彼女を困らせるだけだと分かっていた。

 それに、そんなみっともないことを聞く自分が、何より嫌だった。


「……一人で行くか」


 ぽつりと呟き、エギング用のタックルバッグを肩にかける。


 中には、波留が好きだと言っていたレモン味のグミと、冷えた麦茶のペットボトルが二本。彼女のために用意したそれらが、今は虚しく重いだけだった。


 玄関のドアを開けると、夏の生ぬるい潮風が肌を撫でた。

 いつもなら波留の弾んだ声が聞こえるはずの隣の家は、静まり返っている。


 一人で乗り込んだ電車は、やけに空いていた。

 車窓から見える熊野灘は、鏡のように穏やかで、空の青をどこまでも深く映している。


 絶好の釣り日和だ。

 それなのに、将司の心はどんよりと曇ったままだった。


 尾鷲の防波堤は、週末ということもあってか、何人かの釣り人で賑わっていた。

 将司は邪魔にならないよう、先端から少し離れた場所に陣取り、手早く準備を済ませる。


 オレンジと金色のテープを巻いた、三・五号のエギを選んだ。

 去年、同じ場所で、波留が「この色、夕焼けみたいで綺麗」と言って選んでくれた、当たりカラーだった。


 しなやかなロッドの反動を利用して、エギを遥か沖へとキャストする。

 シュルシュルと音を立ててラインが放出され、小さな餌木が美しい放物線を描いて海へと吸い込まれていく。


 着底を待つ、数十秒。いつもなら、胸が高鳴る瞬間だ。

 海の底、自分の知らない世界にいる獲物との、静かな駆け引きが始まる。


 だが、今日は違った。

 竿先から伝わる微かな感覚に、意識を集中できない。


 頭に浮かぶのは、波留のことばかり。


 今頃、部屋で絵を描いているんだろうか。

 ちゃんと飯は食ってるのか。

 あの男とは、まだ連絡を取り合っているのか。


 大きく竿をしゃくり、エギを跳ね上げる。

 その瞬間、ぐん、と重みが乗った。


「……根掛かりか」


 舌打ちしながら、ゆっくりと竿を立てる。生命反応はない。海底の岩か海藻に、針が引っかかってしまったらしい。


 何度か軽くあおってみるが、外れる気配はなかった。


 ――くそっ。


 集中していなかった罰だ。

 いや、違う。波留を守り、繋ぎとめることができなかった自分への罰だ。


 仕方なく、将司はラインを腕に巻き付け、力任せに引っ張った。

 ぷつん、と虚しい感触が伝わり、PEラインが途中で切れる。

 思い出の詰まったエギを、自分の手で海の底にくれてやってしまった。


 リーダーを結び直し、新しいエギをセットする。


 しかし、一度切れた集中力は、そう簡単には戻らなかった。

 まるで、魂の抜けた人形のように、ただ同じ動作を繰り返すだけだった。


 隣で釣りをしていた家族連れが、歓声を上げた。

 見ると、小学生くらいの男の子が、父親に手伝ってもらいながら、小ぶりなアオリイカを釣り上げている。

 銀色の胴体が、太陽の光を浴びて虹色に輝いていた。


 もし、波留が隣にいたら。


 きっと目を輝かせて、「綺麗……!」とスケッチブックを取り出しただろう。

 そして、「将司はまだ釣れないの?」なんて、楽しそうに俺をからかうんだ。


 そんなありふれた光景が、今はもう、手の届かない遠い場所にあるように思えた。

 寄せる波の音が、まるで自分を嘲笑っているかのように聞こえる。


 結局、その日は一度も竿がしなることなく、時間だけが過ぎていった。

 帰り道、将司はスマホを取り出し、波留にメッセージを送った。


『もう終わったか?』


 既読の表示はすぐについた。

 だが、返信が来たのは、それから一時間以上経ってからだった。


『ううん、まだかかりそう』


 たった一言。

 その素っ気なさが、将司の胸を鈍い痛みで締め付ける。


『そうか。頑張れよ』


 無理やり絞り出した言葉は、あまりに無力だった。

 それきり、彼女からの返信が来ることはなかった。


 ◇


 その夜、将司は自室のベッドの上で、何度も寝返りを打っていた。

 昼間のメッセージ以来、連絡はない。


 彼女が俺の知らない場所で壊れてしまう前に、何か、何か一言だけでも……。

 そんな焦燥感が、彼をじっとさせておかなかった。


 時計の短針が、てっぺんを指そうとしている。

 この町では、ほとんどの家の明かりが消え、深い静寂に包まれる時間だ。


 ――やっぱり、様子を見に行こう。


 いてもたってもいられなくなり、将司はそっとベッドを抜け出した。

 Tシャツにスウェットというラフな格好のまま、音を立てないように玄関のドアを開ける。

 ひんやりとした夜気が、火照った肌に心地よかった。


 月明かりだけが頼りの、暗い路地を抜ける。

 目的の場所は、すぐそこだった。塀沿いに回り込めば、ちょうど波留の部屋の窓が正面に見える場所があった。


 息を殺して、角を曲がる。

 目に飛び込んできた光景に、将司は息を呑んだ。


 周囲の家が闇に沈む中、波留の部屋だけが、夜の闇を食い破るように煌々と明かりが灯っていたのだ。


 まるで、そこだけが別の世界であるかのように。

 この熊野の夜に浮かび上がる、四角い舞台のように。


 引き寄せられるように、将司は一歩、また一歩と、その異質な光に近づいていった。

 生垣の隙間から、部屋の中がうかがえる。幸い、レースのカーテンしか閉まっていなかった。


 そこに、彼女はいた。


 机に向かい、背中を丸め、一心不乱に何かを描いている。


 いつもはポニーテールにしている艶やかな黒髪は、今は無造作に束ねられているだけだ。耳には、白いヘッドフォン。


 PCモニターの青白い光が、彼女の横顔を照らし出していた。


 その表情は、将司が今まで一度も見たことのないものだった。


 獲物を狙う獣のような鋭い集中力と、何かに取り憑かれたかのような狂気にも似た情熱。


 そして、時折モニターの向こう側にいる誰かと話しているのか、ふっと口元が緩む。

 蕩けるように甘い、恍惚とした笑みを浮かべていた。


 それは、将司には決して向けられることのない、斎藤という他者に魅入られた女の顔だった。


 彼女が見つめる画面には、複雑なビル群を背景に、躍動するキャラクターの姿があった。それは、波留が愛した熊野の自然とは、何もかもが対極にある世界。

 無機質で、冷たい光を放つだけの、東京という名の蜃気楼。


 ――ああ、そうか。


 すとん、と腑に落ちた。

 波留はもう、俺の隣にはいない。


 彼女の心は、あのモニターの向こう側、東京にいるあの男の元に、とっくに飛んで行ってしまっているのだ。


 今、彼女の耳に届いているのは、俺の声じゃない。

 画面の向こうから聞こえる、あの男の甘い声だけだ。


 俺が今日一日、どれだけ彼女を想い、どれだけ虚しい時間を過ごしたかなんて、彼女は知る由もない。最初から、俺はそこにいなかったかのように。


 声をかけようと思っていた。

 「大丈夫か」と、ただ一言、聞きたかった。

 だが、その言葉は喉の奥でつかえて、音にならなかった。


 今、この部屋のドアを叩けば、彼女はどんな顔をするだろう。

 きっと、邪魔者を睨むような目で、俺を見るに違いない。

 俺が声をかければ、彼女が掴みかけている蜘蛛の糸を切ってしまうかもしれない。俺が、彼女の夢の足枷になってしまう。


 そうだ。俺には分からない。

 分かるはずがない。


 斎藤という「プロ」に魅了された彼女にとって、俺はただの、この田舎町で魚を釣ることしか能のない、価値のない高校生なのだから。


 ずきり、と胸の奥が痛んだ。

 それは嫉妬とも、諦めともつかない、どうしようもなく惨めな痛みだった。


 将司は、踵を返した。

 一歩、また一歩と、光の灯る窓から遠ざかる。


 脳裏に、二人で見た七里御浜の朝焼けが、共に歩いた松本峠の石畳が、走馬灯のように駆け巡り、そしてあの部屋の光に白く焼き切られていく。


 背中に突き刺さる部屋の明かりが、まるで境界線のように思えた。

 あの光の中には、もう俺の居場所はどこにもない。


 自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

 瞼を閉じても、脳裏に焼き付いて離れないのは、モニターの光に照らされた波留の横顔だった。


 あんなに近くにいたのに、今までで一番、遠くに感じた。


 二人の間に生まれた見えない壁は、もう、将司の手では壊せないほどに、分厚く、そして高くなっている。

 その事実だけが、冷たい絶望となって、彼の心を静かに蝕んでいくのだった。


 ◇


 将司の気配が完全に消えた頃。

 波留はふぅ、と息を吐いて、ヘッドフォンを首にかけた。


「……すみません、斎藤さん。少し、集中が切れちゃって」


 PCのスピーカーから、穏やかで優しい声が流れてくる。


『いいんだよ。夜も遅いし、無理もない。今日はもう休んだらどうかな?』


「いえ、まだやれます。すごく、楽しいので……」


『嬉しいことを言ってくれるね。……ああ、でも。幼馴染の彼、約束を破ってしまったんだろう? 大丈夫だったかい?』


 斎藤の気遣うような言葉に、波留の肩が微かに揺れる。

 将司の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。


 だけど、すぐにモニターの向こうの甘い声に意識が引き戻される。


 波留は、うっとりと目を細めた。

 唇から、吐息のような声が漏れる。


「……大丈夫です。今、私には、これしか見えないから」


 その瞳に映るのは、液晶画面の光だけ。

 隣にあったはずの温もりも、共に過ごした時間も、その光の中に溶けて、もう見えなくなっていた。

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