第3話
夜のしじまに、スマートフォンの通知音が心臓を蹴り上げるように響いた。
波留は息を殺し、震える指で画面に触れる。
『課題、楽しみにしてる。都合のいい時間を教えてくれるかな? ビデオ通話で、直接説明したい』
斎藤巧からのメッセージ。
ビデオ通話。その四文字が、波留の心臓を鷲掴みにする。
顔を見て、話す。東京にいる、本物のプロと。
想像しただけで頬が熱くなり、指先が痺れていく感覚があった。
「……いつでも、大丈夫です。斎藤さんの、ご都合に合わせます」
我ながら卑屈な文章だと思ったが、送信ボタンを押す指は止まらなかった。
すぐに既読がつき、ほとんど間を置かずに返信が来る。
『ありがとう。じゃあ、明日の夜9時はどうかな?』
『はい! よろしくお願いします!』
ほとんど叫ぶように打ち込み、波留はベッドに倒れ込んだ。スマートフォンの画面を、祈るように胸に抱きしめる。
将司の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。
今日の放課後、めはり寿司を食べながら寂しそうに笑っていた、彼の顔。
でも、と波留は思う。これは私の夢のため。将司は優しいから、きっと応援してくれるはず。
そう。でも、この胸の高鳴りの本当の意味は、きっと彼には理解できないだろう。この世界の言葉を、彼は知らないのだから。
そう自分に言い聞かせると、胸を刺す小さな罪悪感は、東京への期待という熱にいともたやすく溶かされていった。
その夜、波留はほとんど眠ることができなかった。
翌日の授業は、全く頭に入ってこなかった。
教師の声も、友人たちの他愛ないおしゃべりも、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のよう。
波留の意識は、ただ一点、今夜九時という瞬間にだけ囚われていた。
放課後、将司が教室のドアから顔を覗かせた。
「波留、帰るぞ」
いつも通りの、ぶっきらぼうな口調。だが、その声には昨日までとは違う、硬質な響きが混じっていた。何かを確かめようとするような、探るような響きが。
「あ、うん……ごめん、将司。今日、先に帰ってて。やることがあるから」
咄嗟に出た言葉だった。将司の目を真っ直ぐに見ることができない。
嘘ではない。斎藤との通話の前に、心の準備も、部屋の片付けもしておきたかった。
でも、本当のことは、言えなかった。
「……そうか」
わずかな沈黙が、教室の空気を鉛のように重くする。
将司はそれ以上何も言わず、こくりと頷いた。
その横顔に浮かんだ表情を見るのが怖くて、波留は俯いた。彼がどんな顔で、どんな思いでその返事をしたのか、知りたくなかった。
ただ、教室を去っていく彼の足音が、いつもよりずっと重く、引きずるように聞こえた。
まるで、何か大切なものをその場に置き去りにしていくような、諦めに満ちた背中だった。
家に飛んで帰り、波留は自室に駆け込んだ。
クローゼットを開け、数少ないよそ行きの服を引っ張り出す。将司とのデートでも着たことのない、少しだけ大人びたデザインのブラウス。
鏡の前で何度も着替え、髪を結び直し、普段はしない薄化粧まで施した。
鏡に映る自分は、知らない女の顔をしていた。
これでいいの? 心のどこかで声がする。
いいに決まってる。波留は自分に言い聞かせた。これは、将司には見せない、見せてはいけない、特別な私なんだ。
部屋も念入りに掃除する。スケッチブックや画材を綺麗に整頓し、画面の背景に余計なものが映り込まないよう、ベッドの位置まで変えた。
まるで、初めて好きな人を家に招く少女のような自分が、少しおかしくて、背徳的なスリルに心がざわめいた。
午後八時五十九分。
PCの前に座った波留の心臓は、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。深呼吸を繰り返すが、喉はカラカラに乾いている。
時間ぴったりに、軽やかな着信音が鳴り響いた。
震える指で、通話開始のボタンをクリックする。
画面が切り替わり、そこに一人の男が映し出された。
「こんばんは、相生波留さん。スタジオ・エリュシオンの斎藤です」
画面越しの斎藤巧は、波留の想像をはるかに超えて、洗練された空気をまとっていた。
計算された無造作ヘア。縁の細い眼鏡の奥で、冷静な光を宿した瞳がこちらを値踏みするように細められる。
背景に映るコンクリート打ちっぱなしの壁、専門書が詰まった本棚、そして巨大なモニター群。
熊野の、自分の部屋とは何もかもが違う。そこは、夢が生まれる場所の匂いがした。
「あ、こ、こんばんは! 相生波留です! よろしくお願いします!」
緊張で声が裏返る。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
そんな波留を見て、斎藤はふっと口元を緩めた。その笑みは、まるで怯える小動物を安心させるかのように優しく、そしてどこか、全てを見透かしているようにも見えた。
「そんなに緊張しなくていいよ。リラックスして。まずは、君の絵について話をしようか」
斎藤はそう言うと、手元の端末を操作した。画面の隅に、波留がSNSに投稿した絵が次々と表示されていく。七里御浜の朝焼け。丸山千枚田に映る空。花の窟神社の、鬱蒼とした木々の緑。
「素晴らしいね。特にこの光の捉え方だ。熊野の、あの独特の湿り気を含んだ空気感まで伝わってくる。これはね、ただ技術があるだけじゃ描けない。君が、その土地をどれだけ愛しているかが、一枚の絵から痛いほど伝わってくるんだ」
斎藤の言葉は、魔法のようだった。
将司はいつも「すごいな」「綺麗だな」と、太陽みたいに笑って褒めてくれる。その言葉は嬉しかった。でも、斎藤の言葉は違った。彼は、波留自身でさえ言語化できていなかった、絵に込めた想いを的確に言い当ててみせた。
将司の言葉は、もう表面的なものにしか聞こえないかもしれない。この深さを、彼は知らない。
「この、朝焼けのグラデーション。ありきたりなオレンジや赤じゃない。紫がかった青から、淡い金色に移ろうとする、ほんの一瞬の奇跡的な時間を切り取っている。多くの人間が見過ごす美しさを、君の目は捉えているんだ。これは、才能だよ」
全身の血が沸騰するような感覚。
認められた。本当の意味で、理解してもらえた。
波留の瞳に、じわりと涙が滲む。
「ありがとうございます……」
声を絞り出すのが精一杯だった。
「ただね」
斎藤は、そこで言葉を切った。細い指で、眼鏡の位置をすっと直す。
「君の絵は、まだ『原石』だ。磨かれていない。あまりにも無垢で、無防備すぎる。この小さな、美しい世界の中だけで完結してしまっている」
天国から突き落とされたような衝撃。波留の表情がこわばるのを、斎藤は見逃さなかった。
「勘違いしないでほしい。これは批判じゃない。むしろ、最大の賛辞だ。君には、とてつもない伸びしろがあるってことだからね。……そして、その原石を磨くのが、僕たちプロの仕事なんだ」
アメとムチ。あまりに巧みな話術に、十六歳の少女が抗えるはずもなかった。波留は、斎藤の言葉を一言一句聞き漏らすまいと、画面に食い入るように見入っていた。
「そこで、君に『課題』を出したい。君の才能が、この熊野という小さな世界だけで通用するものなのか。それとも、もっと広い世界で戦える本物なのか。それを試すためのね」
斎藤は、挑発するように笑った。
「課題は、こうだ。『都会の雑踏を疾走するキャラクター』。これを一枚の絵に描いてみてほしい」
「……都会の、雑踏……」
波留は呆然と呟いた。
静謐な自然ばかりを描いてきた自分にとって、それは最も縁遠いテーマだった。高層ビルがひしめき合う街並み。行き交う人々の群れ。その中を、躍動感たっぷりに駆け抜けるキャラクター。
どう描けばいいのか、全く想像がつかない。
「難しそうだね?」
斎藤が、心を見透かしたように言った。
「アニメーションは、キャラクターを動かしてこそ価値が生まれる。背景がどれだけ美しくても、そこに生き生きとしたキャラクターがいなければ、ただの風景画だ。君に足りないのは、その『動き』と『世界観の構築力』。この課題は、君の弱点を克服するための、最初のステップなんだよ」
これは、テストなのだ。
この壁を乗り越えなければ、夢への扉は開かない。
波留はごくりと唾を飲み込んだ。不安よりも、挑戦できることへの興奮が勝っていた。
「やります! やらせてください!」
食い気味に答える波留に、斎藤は満足そうに頷いた。
「いい目だ。期待しているよ。期限は……そうだね、三日後の夜十時。もう一度、こうして話そう。完成した絵を見せてほしい」
「はい!」
「ああ、それと……これは、僕と君だけの秘密だ。彼氏さんや、他の誰にも見せたり、相談したりしちゃダメだよ」
斎藤は悪戯っぽく片目をつむいだ。
「才能っていうのは、時に嫉妬を生むからね。君を守るためでもあるんだ。わかるね?」
画面越しの彼の瞳の奥に、揺るぎない支配の色が宿るのを、波留は見た。
心を完全に掌握されたことへの、静かな愉悦の光。
「……はい」
将司を裏切る、最初の約束。
罪悪感が胸をよぎる。だが、斎藤の「君を守るため」という甘い言葉と、二人だけの共犯関係になれるという背徳的な喜びが、その罪悪感をねじ伏せていく。
これは、特別なことなんだ。私と斎藤さんだけの、秘密のレッスン。
将司のいる穏やかな日常にはない、刺激的な快感が背筋を駆け上った。
通話を終えた後も、波留の興奮は冷めなかった。
すぐに机に向かい、真っ白なスケッチブックを開く。
都会の雑踏。疾走するキャラクター。斎藤の言葉が、頭の中で何度も反響する。
まずは資料集めだと、ネットで「東京」「渋谷」「スクランブル交差点」といったキーワードで画像を検索する。画面に溢れる、おびただしい数の人間と、天を突くようなビル群。情報量が多すぎて、どこから手をつけていいのか分からない。
それでも、波留は夢中で鉛筆を走らせた。
斎藤さんに、すごいって言わせたい。私の才能が本物だって、証明したい。
その一心だった。
だが、現実は甘くなかった。
ビルを描こうとしても、遠近感が狂ってぐにゃぐにゃの歪んだ箱にしかならない。人間を描こうにも、大勢の人間がひしめく構図など描いたことがなく、まるで生気のないマネキン人形の集まりのようになってしまう。
何より、キャラクターに「疾走感」が出ない。地面に足が張り付いたように、動きが硬い。
描いては消し、描いては消し。
新品だったはずのスケッチブックのページは、すぐに消しゴムの跡と、行き場のない線の残骸で黒ずんでいった。
時計の針は、とっくに深夜一時を回っている。
部屋に響くのは、鉛筆が紙を擦る音と、自分の焦燥に満ちたため息だけ。
熊野の自然を描いていた時は、こんな苦しみはなかった。見たままを、感じたままを写し取れば、それは自然と絵になった。
でも、これは違う。知らない世界を、ゼロから構築する作業だ。自分の引き出しのあまりの少なさに、波留は絶望的な気持ちになった。
――才能なんて、なかったのかもしれない。
斎藤さんの言葉が、ただのお世辞だったら? 私をからかって、楽しんでいるだけだったら?
一度浮かんだ疑念は、毒のように心を蝕んでいく。
もう無理だ。そう思って、鉛筆を投げ出した瞬間だった。
枕元に置いていたスマートフォンが、ぶぅ、と短く震えた。
画面に表示された名前に、波留の心臓が跳ねる。
斎藤巧。
『そろそろ壁にぶつかっている頃かなと思って』
メッセージを開くと、優しい文面が目に飛び込んできた。
『大丈夫? 無理しないで。初めてのことで、苦しんでいるんじゃないかな』
どうして、わかるんだろう。
偶然? 違う。この人は、私のSNSの更新が止まった時間、通話で見せた私の性格、そのすべてを分析して、私が一番心が折れるこの瞬間を、完璧に計算して連絡してきたんだ。
恐怖と同時に、すべてをこの人に支配されているという倒錯した安堵感がこみ上げる。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
波留の瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち、スケッチブックの上に染みを作った。
『誰もが通る道だよ。でも、君なら絶対に乗り越えられる。僕にはわかる』
続くメッセージが、弱り切った心に温かく染み渡る。
もし今、将司に相談したら、彼は何て言うだろう。「無理すんなよ」と、優しく頭を撫でてくれるかもしれない。
でも、それだけだ。この苦しみの本質も、乗り越えた先にある輝きも、彼には絶対に理解できない。
将司じゃない。お父さんでも、お母さんでもない。
この東京の男だけが、今、この瞬間の私の苦しみを理解し、救いの手を差し伸べてくれている。
波留は、まるで神様からの啓示を受け取った信者のように、震える指で返信を打ち始めた。
将司との間にあった、透明で穏やかだった世界を、自らの手で粉々に打ち砕く言葉を。
『助けてください』
その一言を送った瞬間、波留は悟った。もう二度と、後戻りはできない。
これは、魂の契約なのだと。
間髪入れずに、斎藤からのメッセージが届く。
暗闇に差し込んだその一筋の光は、彼女をさらに深く、甘く、抗えない檻の中へと誘い込むものだった――。
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