第2話 消えた夜の映像


拓海は、黙秘を続けていた。

接見室で彼と向き合った時、私は何も感じなかった。同情も、怒りも。ただ、この男と結婚していた10年間が無駄だったという、空虚な事実だけが残った。

「玲奈、俺は本当に何もしていない」

拓海は震える声で言った。だが、私は答えなかった。

「弁護士は?」

「手配した」

「それだけ?お前、俺を信じてないのか?」

私は拓海を見た。彼の目には、恐怖があった。

「信じる理由がないわ」

私はそう言って、接見室を出た。


美咲の行動を追う必要があった。

彼女が死ぬ前、何をしていたのか。誰と会っていたのか。そして、なぜ私に「助けて」というメッセージを送ったのか。

私は美咲の勤務先に向かった。IT企業の本社ビル。受付で名前を告げると、美咲の上司が出てきた。

「水瀬さん……ですね。桐谷さんのご主人の」

上司の女性は、気まずそうに言った。私は軽く頷いた。

「美咲さんのこと、少し聞きたいんです」

「警察にはもう話しましたが」

「私は、警察ではありません」

上司は迷ったが、結局、私を会議室に通した。

「桐谷さんは、ここ数ヶ月、様子がおかしかったんです」

上司は重い口を開いた。

「どんな風に?」

「以前は明るくて、仕事も熱心だったんですが……半年前くらいから、急に無口になって。ミスも増えました」

半年前。拓海との不倫が始まった時期だ。

「最近、誰かと会っていたとか、変わったことは?」

上司は少し考えてから、答えた。

「そういえば、事件の前日、銀座のバーに行くと言っていました。誰かと会う約束があるって」

私は身を乗り出した。

「相手は?」

「わかりません。ただ、『昔の知り合い』だと言っていました」

昔の知り合い。

私は上司に礼を言って、会議室を出た。


銀座のバーは、すぐに特定できた。

美咲のクレジットカードの利用履歴を、警察から入手したのだ。藤崎刑事に頼み込んで、非公式に見せてもらった。

バーは、裏通りにある小さな店だった。私はカウンターに座り、マスターに声をかけた。

「一昨日の夜、この女性が来ていませんでしたか?」

私は美咲の写真を見せた。マスターは写真を見て、頷いた。

「ああ、来てましたよ。誰かと待ち合わせだって」

「相手は?」

「女性でした。30代くらいの」

私の心臓が、早鐘を打った。

「その女性の顔、覚えていますか?」

マスターは首を横に振った。

「すみません。忙しくて、よく見てなかったんです。ただ……」

「ただ?」

「防犯カメラには映ってるはずです」


私はマスターに頼み込んで、防犯カメラの映像を見せてもらった。

画面には、美咲が映っていた。カウンターに座り、グラスを傾けている。時刻は、午後7時32分。

そして、午後7時47分。

店のドアが開き、一人の女性が入ってきた。

私は画面に釘付けになった。

女性は、後ろ姿しか映っていない。だが、その服装――黒いコート、ダークグレーのパンツ、そして肩にかけたバッグ。

私が持っている服と、全く同じだった。

体型も、髪型も。

まるで、私自身が映っているようだった。

「これ……」

私は声が出なかった。マスターが心配そうに覗き込んだ。

「どうかしました?」

「この女性、顔は映ってませんか?」

「カメラの角度が悪くて……。ずっと後ろ姿なんですよ」

私は映像を巻き戻し、何度も見た。だが、女性の顔は一度も映らなかった。まるで、カメラの位置を知っているかのように、常に死角にいた。

美咲とその女性は、30分ほど話していた。美咲は時折、顔を歪めていた。泣いているようにも見えた。

そして午後8時15分、女性は立ち上がり、店を出た。

美咲は一人、残された。

私は震える手で、スマホを取り出した。そして、自分のスケジュールを確認した。

一昨日の午後7時47分。

私は――事務所にいたはずだ。

だが、確信が持てなかった。


事務所に戻った私は、自分のアリバイを確認し始めた。

一昨日の夜。私は事務所で、資料整理をしていた。

――はずだ。

だが、記憶が曖昧だった。午後7時から午後9時までの記憶が、まるで霧の中にあるように、ぼんやりとしている。

私は事務所の防犯カメラの映像を確認した。小さな事務所だが、一応、カメラは設置している。

映像を再生する。

午後6時58分。私が事務所に入る映像。

そして――。

午後7時12分。私が事務所を出る映像。

私は息を呑んだ。

なぜ、出た?私はどこに行った?

映像を進める。

午後8時49分。私が事務所に戻る映像。

約1時間半、私は事務所を空けていた。

その間、私は何をしていた?

私は頭を抱えた。記憶がない。全く、ない。

その時間だけ、私の意識が消えていたように。


その夜、私は眠れなかった。

ベッドに横になっても、頭の中で映像が繰り返される。

銀座のバーにいた、私にそっくりな女性。

事務所を出た私。

そして、美咲の死体。

私は、美咲を殺したのか?

記憶にないだけで、私が彼女の首を絞めたのか?

私はベッドから起き上がり、洗面所に向かった。鏡の中の自分を見る。

この顔が、誰かを殺したのか?

この手が、誰かの命を奪ったのか?

私は自分の手を見た。震えている。

深呼吸。もう一度。

だが、不安は消えなかった。


翌朝、私は藤崎刑事に電話した。

「美咲のスマホ、もう一度見せてもらえませんか?」

藤崎は少し驚いたようだったが、了承してくれた。

「何か見つけたんですか?」

「わかりません。ただ、確認したいことがあるんです」

私は警察署に向かった。

藤崎は、証拠品として保管されている美咲のスマホを持ってきてくれた。

「削除されたデータも、復元しました」

藤崎はタブレットを私に渡した。画面には、復元されたメッセージや音声データのリストが表示されている。

私はリストをスクロールした。そして、ある音声データで手が止まった。

録音日時は、事件の3日前。

私は音声を再生した。

そして――。

私の声が聞こえた。

「あなたを許さない」

冷たく、低い声。

私は息を呑んだ。

これは、私の声だ。間違いない。

だが、私はこんなことを言った覚えがない。

「水瀬さん?」

藤崎が心配そうに覗き込んだ。私は震える手で、タブレットを彼に返した。

「これ……合成ですか?」

藤崎は首を横に振った。

「音声分析の結果、合成の痕跡はありませんでした」

私は立ち上がった。

「失礼します」

「水瀬さん、もし何か心当たりがあるなら――」

「ありません」

私は嘘をついた。そして、警察署を出た。


事務所に戻った私は、デスクに座り込んだ。

私の声。

私の服装。

そして、私の失われた記憶。

すべてが、私を犯人だと指し示している。

だが、私は覚えていない。

なぜ?

私は頭を抱えた。そして、突然――。

フラッシュバックが襲ってきた。

暗い部屋。

美咲が、私の前に立っている。

彼女は泣いている。

そして、私は――。

私の手が、美咲の首に。

「やめて!」

私は叫んだ。そして、気づいた。

私は事務所で、一人で叫んでいた。

フラッシュバックは消えた。

だが、吐き気が込み上げてきた。私は洗面所に駆け込み、吐いた。

何も出なかった。胃は空っぽだった。

私は床に座り込んだ。

本当の記憶なのか?

それとも、不安が生み出した幻覚なのか?

わからない。

何も、わからない。


その日の午後、私は美咲について、さらに調べることにした。

彼女の過去。彼女の人間関係。そして、彼女がなぜ拓海に近づいたのか。

私は美咲の住んでいたアパートに向かった。警察の検証は終わっており、遺族に引き渡される前だった。

管理人に事情を話し、部屋の鍵を借りた。

美咲の部屋は、綺麗に片付いていた。シンプルな家具。白い壁。窓からは、東京タワーが見えた。

私は部屋を調べ始めた。

クローゼット、引き出し、本棚。

そして、デスクの引き出しの奥に、一冊のノートを見つけた。

私はノートを開いた。

そこには、手書きのメモが綴られていた。

日記のようなものだった。

私はページをめくった。

そして、ある日付で手が止まった。

「水瀬玲奈について調べた。彼女は7年前、連続失踪事件の担当刑事だった」

私は息を呑んだ。

美咲は、私のことを調べていた。

なぜ?

私はさらにページをめくった。

「玲奈は、榊原を逃がした。なぜ?上司の命令?それとも、彼女自身の意志?」

榊原。

その名前を見た瞬間、頭痛が走った。

私は額を押さえた。

そして、ノートの最後のページを開いた。

そこには、一行だけ書かれていた。

「私の本名は、相馬絵里」

私は立ち尽くした。

相馬絵里。

7年前の失踪事件の被害者の一人。

美咲は――絵里は、生きていた。

そして、彼女は私を調べていた。

なぜ?

私はノートを閉じ、部屋を出た。


その夜、私は事務所で、7年前の事件について調べ直した。

連続失踪事件。被害者は3人。

柏木瑞希、相馬絵里、そして川島ひかり。

容疑者は、榊原透。

だが、証拠不十分で釈放。

そして、榊原は行方不明。

私は、なぜ榊原を逃がしたのか?

記憶を辿る。だが、霧の中を歩いているように、何も見えない。

その時、スマホが鳴った。

非通知。

私は電話に出た。

「水瀬玲奈です」

沈黙。

そして、声が聞こえた。

女性の声。あの声だ。

「まだ、思い出せないの?」

私は息を呑んだ。

「あなたは誰?」

「もうすぐ会えるわ。そうしたら、すべて思い出すでしょう」

「待って――」

電話は切れた。

私は立ち上がった。

誰だ?誰が、私に電話をかけてくる?

そして――。

その女性は、美咲なのか?

絵里なのか?

生きているのか?


翌日、私は再び藤崎刑事を訪ねた。

「7年前の失踪事件の被害者、相馬絵里について教えてください」

藤崎は眉をひそめた。

「なぜ、その名前を?」

「桐谷美咲の本名です」

藤崎は驚いた表情を見せた。

「本当ですか?」

「彼女の部屋で、日記を見つけました」

私は日記のページの写真を見せた。藤崎は写真を見て、ため息をついた。

「相馬絵里は、7年前に失踪しました。だが、遺体は見つかっていません」

「では、彼女が生きていた可能性は?」

「あります。実際、桐谷美咲として生きていたわけですから」

私は次の質問を口にした。

「他の被害者は?柏木瑞希と川島ひかりは?」

藤崎は重い口を開いた。

「柏木瑞希は、今も行方不明です。川島ひかりは――」

藤崎は言葉を切った。

「川島ひかりは?」

「3年前に発見されました。神奈川県の山中で」

私は息を呑んだ。

「生きていたんですか?」

藤崎は頷いた。

「ええ。ただ――」

藤崎は私を見た。

「彼女は、記憶を失っていました。何も話せない状態で。今も、精神病院に入院しています」

私は言葉を失った。

川島ひかりは、生きていた。だが、記憶を失い、廃人のようになっていた。

そして、相馬絵里は桐谷美咲として生きていた。

柏木瑞希は、まだ見つかっていない。

この3人は、7年前、榊原透に何をされたのか?


その夜、私は一人で事務所にいた。

窓の外は、雨だった。

私はデスクに座り、7年前の事件ファイルを見ていた。

そして――。

突然、フラッシュバックが襲ってきた。

暗い倉庫。

女性たちの悲鳴。

そして、榊原透の顔。

私は、そこにいた。

なぜ?

私は、何をしていた?

フラッシュバックの中で、私は榊原と話していた。

だが、何を話していたのか、聞こえない。

そして――。

榊原が、去っていく。

私は、彼を止めなかった。

なぜ?

フラッシュバックが消えた。

私は床に座り込んでいた。

涙が、頬を伝っていた。

いつから泣いていたのか、わからなかった。

私は、何をした?

7年前、私は何をした?

そして――。

私は今、何をしている?

もし本当に私が美咲を殺したのなら――。

私は、自分で自分を捕まえなければならない。


(第2話 終)


次回:第3話「身代わりの女」

DNA鑑定の結果、河川敷の遺体は美咲本人ではなかった。では、誰が死んだのか?そして、美咲はどこにいるのか?

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