第3話 身代わりの女


藤崎刑事からの電話は、朝9時に来た。

「水瀬さん、すぐに来てもらえますか?」

声に、緊張が滲んでいた。

「何かあったんですか?」

「DNA鑑定の結果が出ました」

私は息を呑んだ。

「遺体は――」

藤崎は言葉を切った。

「直接、話しましょう」


警察署の会議室で、藤崎は資料を私の前に置いた。

「遺体のDNA鑑定を行いました。桐谷美咲の自宅から採取した毛髪と照合したんですが――」

藤崎は私を見た。

「一致しませんでした」

私は資料を凝視した。

「どういうことですか?」

「河川敷で発見された遺体は、桐谷美咲本人ではありません」

私の頭が、真っ白になった。

「では、あれは誰ですか?」

藤崎は別の資料を取り出した。

「DNAデータベースと照合した結果、遺体は柏木瑞希のものでした」

柏木瑞希。

7年前の失踪事件の被害者。

私は椅子にもたれかかった。

「柏木さんは、7年間、どこにいたんですか?」

「わかりません。ただ――」

藤崎は資料を指さした。

「遺体の状態から、死亡したのは事件当日の夜です。つまり、柏木さんは最近まで生きていた」

私は混乱した。

柏木瑞希は、7年間生きていた。

そして、事件の夜に殺された。

では、なぜ彼女の遺体が、美咲として発見されたのか?

「桐谷美咲――いえ、相馬絵里は、どこにいるんですか?」

藤崎は首を横に振った。

「わかりません。彼女の居場所を探しています」

私は立ち上がった。

「拓海は?」

「ご主人は、引き続き勾留中です。ただ、状況が変わったので――」

「釈放される可能性があるということですね」

藤崎は頷いた。

「証拠が不十分になりました」

私は会議室を出た。


事務所に戻る途中、私は自分の感情を整理しようとした。

遺体は、美咲ではなかった。

つまり、私は美咲を殺していない。

少なくとも、あの遺体は私が殺したものではない。

安堵が、胸に広がった。

だが、すぐに新たな恐怖が押し寄せてきた。

では、何が起きているのか?

なぜ、美咲は自分の死を偽装したのか?

そして、なぜ柏木瑞希が殺されたのか?

私は、何を見落としている?


事務所に着くと、ドアの前に封書が置かれていた。

差出人の記載はない。

私は封書を拾い上げ、中に入った。

デスクに座り、封書を開ける。

中には、新聞記事のコピーが入っていた。

7年前の記事。

「連続失踪事件、3人目の被害者 神奈川県警、容疑者を釈放」

記事には、榊原透の写真が掲載されていた。

そして、もう一枚。

写真だった。

私は息を呑んだ。

写真には、失踪現場近くの倉庫が写っていた。

そして、その前に立っているのは――私だった。

7年前の私。

刑事だった頃の私。

私は写真を凝視した。

なぜ、私がそこにいた?

そして、写真の裏を見た。

手書きのメッセージがあった。

「覚えていますか?あなたが私たちを見捨てた日を」

私は写真を落とした。

見捨てた?

私が、誰を?


私は7年前の記憶を辿ろうとした。

だが、霧が晴れない。

私は、あの倉庫に行ったことがある。

それは確かだ。

だが、なぜ行ったのか?

そして、そこで何をしたのか?

思い出せない。

私はパソコンを開き、7年前の事件ファイルを検索した。

当時の捜査記録。証拠写真。関係者のリスト。

そして、ある報告書で手が止まった。

「容疑者・榊原透、証拠不十分により釈放」

報告書には、担当刑事の名前が記載されていた。

水瀬拓海。

そして、副担当。

水瀬玲奈。

私と、拓海。

私たちは、夫婦で同じ事件を担当していた。

そして――私たちは、榊原を逃がした。

なぜ?


その日の午後、私は拓海に再び接見した。

接見室で彼と向き合うと、拓海は疲れた顔をしていた。

「玲奈……遺体が美咲じゃなかったって聞いた」

私は頷いた。

「柏木瑞希だった」

拓海は顔を歪めた。

「7年前の……」

「そう。あなたと私が担当していた事件の被害者」

拓海は黙った。

私は単刀直入に聞いた。

「美咲――絵里が、あなたに近づいた理由は何?」

拓海は目を逸らした。

「わからない」

「嘘をつかないで」

私は声を低くした。

「美咲は、最初からあなたを狙っていた。なぜ?」

拓海は長い沈黙の後、口を開いた。

「半年前、美咲が俺に近づいてきた。バーで偶然会ったように見せかけて」

「それで?」

「彼女は、7年前の事件のことを知っていた。榊原のこと。そして――」

拓海は私を見た。

「お前のことも」

私は息を呑んだ。

「私の、何を?」

「お前が、榊原を逃がしたこと」

私は立ち上がった。

「私は逃がしていない」

「本当にそう思ってるのか?」

拓海の声は、冷たかった。

「お前は、あの日、倉庫に行った。そして、榊原と話した。その後、榊原は釈放された」

私は言葉を失った。

「美咲は、それを知っていた。そして、俺を脅した」

「何を?」

「お前の過去を暴く、と」

私は椅子に座り込んだ。

美咲は、私を狙っていた。

拓海は、ただの手段だった。

「それで、あなたは彼女と関係を持った」

拓海は頷いた。

「お前を守るために」

私は笑った。乾いた笑い。

「守る?あなたが?」

「玲奈――」

「もういい」

私は立ち上がった。

「弁護士に、すべて話して。そうすれば、あなたは釈放される」

私は接見室を出た。


事務所に戻ると、私は窓の外を見た。

美咲は、私を狙っていた。

7年前の事件について、何かを知っている。

そして、私に何かを伝えようとしている。

だが、なぜこんな回りくどい方法を?

なぜ、柏木瑞希を殺し、自分の死を偽装したのか?

その時、スマホが鳴った。

非通知。

私は電話に出た。

「水瀬玲奈です」

沈黙。

そして、声が聞こえた。

あの女性の声。

「やっと、少しわかってきたみたいね」

私は息を呑んだ。

「あなたは、絵里?相馬絵里?」

沈黙。

そして、彼女は答えた。

「その名前は、もう使っていないわ」

「では、何と呼べばいい?」

「美咲でいいわ。あなたの夫の愛人として、演じていた名前」

私は椅子に座った。

「なぜ、こんなことを?」

「あなたに、思い出させるため」

「何を?」

「あなたが、私たちに何をしたのか」

私は息を呑んだ。

「私は、何もしていない」

美咲は笑った。冷たい笑い声。

「本当にそう思ってる?それとも、都合よく忘れてるだけ?」

「私は――」

「7年前、あなたは倉庫に来た。私たちが監禁されていた倉庫に」

私の頭に、フラッシュバックが走った。

暗い倉庫。

女性たちの悲鳴。

そして――。

「あなたは、私たちを見た。瑞希も、ひかりも、私も。みんな、助けを求めていた」

私は震える声で聞いた。

「それで、私は何をした?」

美咲の声が、さらに冷たくなった。

「あなたは、去っていった」

私は言葉を失った。

「あなたは、私たちを見捨てた。榊原と取引をして、証拠を揉み消して、そして――私たちを、地獄に残した」

「違う……」

「瑞希は、拷問の末に死んだ。ひかりは、廃人になった。そして私だけが、辛うじて逃げ出せた」

私は頭を抱えた。

「私は、そんなことをしていない」

「本当に?」

美咲の声が、耳に突き刺さった。

「では、なぜあなたは刑事を辞めた?なぜ、あの事件の記憶を曖昧にしている?」

私は答えられなかった。

「次に会う時、すべて思い出すでしょう」

電話は切れた。


私は床に座り込んだ。

私は、彼女たちを見捨てたのか?

本当に?

私は、記憶を辿ろうとした。

7年前のあの日。

私は、倉庫に行った。

そして――。

フラッシュバックが、再び襲ってきた。

倉庫の中。

薄暗い空間。

3人の女性が、鎖で繋がれていた。

絵里、瑞希、ひかり。

彼女たちは、助けを求めていた。

そして、私は――。

榊原透が、私の前に立っていた。

彼は、何かを言っていた。

だが、声が聞こえない。

そして、私は――。

私は、去っていった。

フラッシュバックが消えた。

私は、泣いていた。

涙が止まらなかった。

私は、彼女たちを見捨てたのか?

本当に、私が?


翌日、私は藤崎刑事に7年前の事件ファイルをすべて見せてもらった。

「なぜ、今さらこの事件を?」

藤崎は不思議そうに聞いた。

私は答えなかった。

ファイルを読み進める。

捜査記録、証拠写真、関係者の証言。

そして、ある報告書で手が止まった。

「容疑者・榊原透との取引について」

報告書には、担当刑事の署名があった。

水瀬拓海。

そして、副署名。

水瀬玲奈。

私は、この報告書を書いた記憶がない。

だが、これは私の署名だ。

報告書の内容を読む。

「榊原透は、被害者の居場所を明かすことと引き換えに、証拠の一部を破棄することに合意した」

私は息を呑んだ。

取引?

私は、榊原と取引をしたのか?

そして――。

報告書の最後の一行。

「被害者の居場所は明かされず、榊原透は釈放された」

私は、騙されたのか?

それとも――。

私は、最初から榊原を逃がすつもりだったのか?


その夜、私は事務所で一人、考え込んでいた。

なぜ、私は榊原と取引をしたのか?

なぜ、証拠を破棄したのか?

そして、なぜ記憶が曖昧なのか?

その時、事務所のドアが開いた。

私は振り向いた。

そこに、女性が立っていた。

黒いコート。ダークグレーのパンツ。

銀座のバーの防犯カメラに映っていた、あの服装。

そして――。

彼女は、私にそっくりだった。

いや、違う。

彼女は、美咲だった。

相馬絵里だった。

「久しぶりね、水瀬さん」

美咲は冷たく微笑んだ。

私は立ち上がった。

「あなた――生きていたのね」

「ええ。あなたに殺されなかったから」

私は息を呑んだ。

「私は、あなたを殺していない」

「そうね。直接的には」

美咲は一歩、近づいた。

「でも、あなたは私たちを見捨てた。それは、殺すのと同じこと」

私は言葉を失った。

美咲は続けた。

「瑞希の遺体を使って、私の死を偽装した。あなたを、この事件の中心に引きずり込むために」

「なぜ?」

「あなたに、罪と向き合わせるため」

美咲は私を見た。

「あなたは、7年前の記憶を都合よく忘れている。だから、思い出させる必要があった」

私は震える声で聞いた。

「私は、本当に彼女たちを見捨てたの?」

美咲は頷いた。

「あなたは、倉庫に来た。私たちを見た。そして、榊原と取引をした」

「なぜ、私はそんなことを?」

美咲の目が、冷たくなった。

「あなたの上司――水瀬拓海が、榊原から賄賂を受け取っていたから」

私は息を呑んだ。

「拓海が?」

「ええ。そして、あなたはそれを知っていた。保身のために、黙認した」

私は床に座り込んだ。

拓海が、賄賂を受け取っていた。

そして、私は知っていた。

だから、榊原を逃がした。

私は――。

私は、保身のために、彼女たちを見捨てたのか?

美咲は私を見下ろした。

「覚えていますか?あなたが私たちを見捨てた日を」

私は、泣いていた。

「思い出した……」

すべてが、蘇ってきた。

7年前のあの日。

倉庫での光景。

榊原との取引。

そして――。

私が、去っていったこと。

「私は――卑怯だった」

美咲は何も言わなかった。

ただ、冷たく私を見ていた。

そして、彼女は言った。

「あなたには、まだ時間がある。何を選ぶか、よく考えて」

美咲は、事務所を出て行った。

私は一人、残された。

見捨てた。

私が、彼女たちを。


(第3話 終)


次回:第4話「黒い依頼書」

玲奈のもとに届いていた謎の依頼書。その真実が明らかになる時、美咲との直接対決が始まる。

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