嘘の遺体 ― サレ妻探偵、愛人殺害事件の真相
ソコニ
第1話 嘘をついたのは誰
雨の夜、私は夫の愛人の死体を見た。
そして思った――これで、ようやく離婚できる。
多摩川の河川敷は、雨で視界が悪かった。泥に足を取られながら、私は懐中電灯の光を頼りに土手を降りた。警察のサイレンがまだ遠くで鳴っている。夫の拓海は、土手の下で膝をついていた。
「玲奈……」
拓海の声は震えていた。私は彼の視線の先を追った。
そこに、桐谷美咲が倒れていた。
私の夫の、不倫相手が。
美咲の身体は仰向けで、両腕は不自然に広がっていた。白いブラウスは雨で濡れ、首には紫色の痣。絞殺だ。私は数秒、彼女の顔を見つめた。綺麗な顔だった。夫が惹かれたのも無理はない。
そして、私は深く息を吸った。
「警察を呼んだの?」
拓海は頷いた。「今すぐ来るって」
私は美咲の遺体に近づいた。膝をついて、懐中電灯で首元を照らす。絞殺痕は明確だ。爪には何かが残っている――皮膚片だろうか。犯人と揉み合った痕跡。私は美咲の手を取ろうとして、自分の手が微かに震えていることに気づいた。
深呼吸。もう一度。
私はかつて刑事だった。遺体を見ることには慣れている。だが、これは違う。これは、私の夫の愛人だ。
「玲奈、俺は――」
「何も言わないで」
私は拓海の言葉を遮った。彼の言い訳を聞く気はない。私はスマホを取り出し、美咲の遺体を撮影した。顔、首の痣、手の爪、周囲の状況。警察が来る前に、できるだけ記録を残す。
「何してるんだ?」
「記録よ。あなたが疑われるから」
拓海は顔を歪めた。「俺は何もしていない」
「知ってる」
私は淡々と答えた。本当に知っているのか?いや、知らない。ただ、拓海にこんな度胸があるとは思えない。彼は臆病な男だ。不倫をするくらいには卑怯だが、殺人をするほどの胆力はない。
サイレンの音が近づいてきた。私は立ち上がり、美咲の遺体から離れた。そして、ふと気づいた。
美咲のスマホが、彼女の手の近くに落ちている。
私は素早く屈み、画面を確認した。ロックはかかっていない。最後に開いていたのは、メッセージアプリ。そして――。
私は息を呑んだ。
最後に送信されたメッセージ。宛先は、私だった。
「助けて」
送信時刻は、午後8時47分。美咲が死んだのは、おそらく午後9時過ぎ。彼女は死ぬ直前、私に助けを求めていた。
なぜ?
私はスマホを遺体の近くに戻し、立ち上がった。警察のライトが土手を照らし始めた。私は拓海を見た。
「何も喋らないで。黙秘して」
「玲奈、俺は本当に――」
「黙秘して」
私は繰り返した。拓海は何か言いたそうだったが、結局、口を閉じた。
警察は、予想通り拓海を逮捕した。
現場に彼がいたこと、不倫関係にあったこと、美咲の首に残された痣と拓海の手の大きさが一致したこと。状況証拠は完璧だった。
私は警察署のロビーで、担当刑事の話を聞いていた。相手は、私のかつての同僚、藤崎刑事だった。
「水瀬さん、ご主人とは最近どうだったんです?」
藤崎の声は、妙に優しかった。私はそれが嫌いだった。
「冷え切ってました」
私は正直に答えた。隠す意味がない。
「不倫は知ってたんですか?」
「ええ。半年前から」
藤崎は眉を上げた。「なのに、何もしなかった?」
「離婚の準備をしてました。証拠を集めて、慰謝料をきっちり取るために」
それは本当だった。私は拓海の不倫を知った時、怒りよりも先に冷静な計算が働いた。どうやって最大限の利益を得るか。どうやって、この結婚から抜け出すか。
藤崎は何か言いかけたが、結局、ため息をついた。
「わかりました。でも、水瀬さん。ご主人を庇う必要はないですよ」
「庇ってません」
私は立ち上がった。「ただ、夫が犯人だとは思えないんです」
藤崎は怪訝な顔をした。「なぜです?」
「勘ですよ」
私はそう言って、警察署を出た。
自宅に戻ると、私はソファに座り込んだ。部屋は静かだった。拓海がいない静けさ。それは、心地よかった。
私はスマホを取り出し、美咲からのメッセージを確認した。
「助けて」
午後8時47分。
私はその時間、何をしていた?
事務所にいたはずだ。私は独立して、民間調査員をしている。小さな事務所で、一人で仕事をしている。その日も、夜遅くまで資料を整理していた。
――はずだ。
なぜ、「はずだ」なのか?
私は自分の記憶を辿った。午後8時。事務所で資料を読んでいた。午後9時。まだ事務所にいた。そして、午後10時過ぎに拓海から電話があった。
では、午後8時47分は?
私は、何をしていた?
記憶が、曖昧だ。
私は頭を振った。疲れているだけだ。美咲の遺体を見たショックで、記憶が混乱しているだけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
スマホが振動した。メッセージが届いている。差出人不明。
私は画面を開いた。
「あなたは何も知らない」
私は息を呑んだ。誰だ?誰が、こんなメッセージを?
私は返信しようとしたが、指が震えた。深呼吸。もう一度。
そして、私はメッセージを削除した。
翌朝、私は事務所に向かった。
拓海の逮捕は、すでにニュースになっていた。「元刑事の夫、不倫相手を殺害か」。見出しは、センセーショナルだった。
私は事務所のドアを開け、中に入った。小さな部屋。デスク一つ、椅子二つ、本棚一つ。それだけの空間。
私はデスクに座り、パソコンを起動した。そして、美咲について調べ始めた。
桐谷美咲。28歳。IT企業のマーケティング部勤務。SNSには、華やかな生活の写真が並んでいた。旅行、レストラン、友人たちとの笑顔。
だが、何かが引っかかった。
美咲の投稿は、半年前から急に増えていた。それまでは月に数回だったのが、週に数回に。そして、投稿の内容も変わっていた。以前は友人との写真が多かったが、半年前からは一人での投稿が増えた。
何かが、変わった。
半年前。ちょうど、拓海との不倫が始まった時期だ。
私は美咲の過去の投稿を遡った。そして、ある投稿で手が止まった。
一年前の投稿。美咲が友人たちと写っている写真。コメントには「久しぶりの再会」とある。
そして、写真の中の一人の女性。
私は、その顔を見たことがあった。
どこで?いつ?
私は記憶を辿った。そして、思い出した。
7年前。私がまだ刑事だった頃。神奈川県で起きた、連続失踪事件。
その事件の被害者の一人に、この女性がいた。
名前は――。
私はパソコンで検索した。7年前の新聞記事が出てきた。
「20代女性、3人目の失踪 神奈川県警、連続性を捜査」
記事には、失踪した女性の写真が掲載されていた。そして、その中の一人が、美咲の写真に写っていた女性だった。
名前は、柏木瑞希。
私は息を呑んだ。
なぜ、美咲は失踪事件の被害者と知り合いだったのか?
そして、なぜ――。
私のスマホが鳴った。着信は、非通知。
私は電話に出た。
「水瀬玲奈です」
沈黙。
そして、声が聞こえた。
女性の声。低く、冷たい。
「あなたは、覚えていますか?7年前のことを」
私は息を呑んだ。
「誰ですか?」
「もうすぐ、わかります。あなたが何を忘れているのか」
電話は切れた。
私は立ち尽くした。
7年前。
私が刑事を辞めた、あの事件。
私は警察署に向かった。
藤崎刑事に会う必要があった。7年前の失踪事件について、聞かなければならない。
だが、警察署に着く前に、私は足を止めた。
なぜ、私は7年前の事件を思い出したくないのか?
なぜ、あの時のことを考えると、胸が苦しくなるのか?
私は、何を忘れている?
私は自分に問いかけた。だが、答えは出なかった。
私は深呼吸をして、警察署のドアを開けた。
藤崎刑事は、私を会議室に通した。
「水瀬さん、どうしました?」
私は単刀直入に聞いた。
「7年前の連続失踪事件。あれは、解決しましたか?」
藤崎の表情が変わった。
「なぜ、その事件を?」
「桐谷美咲が、被害者の一人と知り合いだったんです」
私は美咲のSNSの写真を見せた。藤崎は写真を見て、眉をひそめた。
「柏木瑞希……。確かに、失踪事件の被害者の一人ですね」
「事件は、どうなったんですか?」
藤崎は重い口を開いた。
「未解決です。3人の女性が失踪して、誰も見つからなかった。容疑者はいたんですが、証拠不十分で釈放されました」
「容疑者の名前は?」
藤崎は私を見た。
「榊原透。当時、神奈川県で運送会社を経営していた男です」
榊原透。
その名前を聞いた瞬間、私の頭に痛みが走った。
「水瀬さん?」
藤崎の声が遠くに聞こえた。私は額を押さえた。
「大丈夫です」
だが、大丈夫ではなかった。
榊原透。
私は、この名前を知っている。
そして――。
私は、この男を逃がした。
私は警察署を出て、事務所に戻った。
頭痛が続いていた。私はデスクに座り、頭を抱えた。
榊原透。
私は、彼を逃がした。
なぜ?
7年前、私は連続失踪事件の担当刑事だった。榊原透は重要参考人として取り調べを受けた。だが、証拠が不十分で釈放された。
そして、榊原はそのまま姿を消した。
私は、なぜ彼を逃がしたのか?
記憶が、霞んでいる。
その時、スマホに通知が来た。メールだ。
差出人不明。
件名はない。
私はメールを開いた。
そこには、一枚の写真が添付されていた。
写真には、7年前の新聞記事が写っていた。連続失踪事件の記事。
そして、記事の横に、もう一枚の写真。
私が、失踪現場の近くに立っている写真。
私は息を呑んだ。
なぜ、私がそこにいた?
そして、写真の下に、一行のメッセージ。
「覚えていますか?あなたが私たちを見捨てた日を」
私は震える手で、スマホを握りしめた。
(第1話 終)
次回:第2話「消えた夜の映像」
玲奈は美咲の行動を追跡する。そして、防犯カメラに映っていたのは――玲奈自身にそっくりな女性だった。
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