第3話 月が導く夜
気づけば、足は駅の方面へと向かっていた。雨上がりの街は、すっかり夜の闇に包まれている。
しかし、車のライトとネオンが濡れたアスファルトを照らし、行き交う人の声のさざめきも明るい。――自分と正反対の街の装いに、美雨は溜息を吐いた。
――どこに行くの?
自分の中の声が問う。
――分からない。
問いの答えを出せる筈も無く、当てもなく彷徨う。
気づくと、覚えがある道に入っていた。雑居ビルの一階、昨夜のバーの木製のドアが見える。
「Bar LUNA」
ネオンの月が白く輝き、看板の銀色が街灯をぼんやり反射している。
胸の奥が、きゅっと音を立てた。――あの人が、いた場所だ。
行く宛のない足が、自然とここを選んだのかもしれない。
「……帰れないんだな、私」
小さく落とされた呟きはそのまま夜に溶けていった。
その時だった。
背後から、軽い笑い声が聞こえた。
「え、めっちゃ可愛いじゃん!……高校生?中学生じゃないよね? だめだよー、こんなとこに来ちゃ」
振り向くと、二人のスーツ姿の男達がいた。まだ二十代半ばくらいだろうか。美雨は思わず眉根を寄せた。
どちらも顔が赤く、手に缶ビールを持っている。
軽い酔いと退屈を誤魔化すような笑い――まるで面白いおもちゃを見つけたような不躾な視線。
「ほら、夜は危ないんだって。――安全なとこまで俺らが送ってってあげるから」
「やめてください」
背中の皮膚がざわついた。美雨は小さく首を振った。
しかし、男の一人が構わず手を伸ばす。
「そんな嫌がんなよ。ちょっとだけ、話そう?」
腕を掴まれる瞬間――
がし、と別の手がその男の手首を掴んだ。
パシッという乾いた音が響く。
「……離せ」
低いがどこか艶やかな声。
その声を、美雨は知っていた。
昨夜、眠る前に。
そして今朝、灰色の光の中でも聞いた。
――胸まで伸びた黒髪と長身が印象的な黒衣の男が、そこにいた。
スーツの男が顔をしかめた。
「なんだよお前」
「関係ねぇだろ」
「俺はここの関係者だ。――店に入ろうとした客に絡むのは立派な営業妨害だ」
静かな声音なのに、妙に圧がある。
掴まれた手首を振りほどこうとした酔客の肩が、軽い反動で壁にぶつかった。
もう一人が顔を引き攣らせ、後ずさった。
「ちっ、行こうぜ」
「酔いが醒めちまったぜ」
捨て台詞を吐き、二人は足早に角を曲がって消えた。
残されたのは、美雨と後から現れた男だけ。
雨上がりの匂いが、二人の間に薄く漂っていた。
「……今朝の……」
思わず口からこぼれた言葉。何と言えばいいか分からず、その後が続かない。
男は、ほんの一瞬、目を伏せた。
それから静かに息を吐き、
「……こんなとこに来るな」
とだけ言った。
「……ダメでしたか……?」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
それは問いというより、どこか震えるような声だった。
男はすぐには答えなかった。
その言葉の意味を測りかねるように、ほんの一瞬、目を細める。
「……名前は?」
「……氷室、美雨です」
その名を聞いた瞬間、男の目がかすかに動いた。
わずかな沈黙。
「……そうか」
その一言とともに、視線がゆっくり逸れた。
その横顔に浮かんだ表情の意味が美雨には分からなかった。
「……行く場所がないんです」
ぽつりと零れた声は、冷たい夜気に溶けていった。
男は短く息を吐き、静かに言った。
「入れ」
その一言に導かれるように、美雨は扉を押した。
中から漂ってきたのは、ほのかに甘い酒の香りと、心地よいジャズの低い音。
「Bar LUNA」――昨夜と同じ、静かな灯りがそこにあった。
「……あれ、君は……」
カウンターの奥でマスターが顔を上げた。
その目が美雨をとらえ、少しだけ眉が上がる。
「昨日はしっかり化粧していて、酒を頼んでいたが……やっぱり、未成年だったな」
口調は淡々としているが、声には優しさが混ざっていた。美雨は何となく申し訳なさを覚えて、ぺこりと頭を下げる。
「別に叱る気はないけど……ちょっと心配はするよ。まあ、座りな」
美雨は小さく頷き、カウンターの端に腰を下ろした。
「何か飲む?」
「……お酒じゃないの、ありますか」
「もちろん――こんなのはどうだ?」
マスターは微笑んだ。ちょっと待ってな、と言いカウンターの奥に消える。
ほどなくして、湯気を立てるマグカップが目の前に置かれた。
ミルクと蜂蜜の匂いが美雨の心をほぐしていく。
「……甘い」
口に含むと、ふっと肩の力が抜けた。
それを見て、マスターは満足げに頷く。
「喜んでもらえて良かったよ。――昨日もこっちのが良かったかもしれないね」
その軽口が、なぜか救いに聞こえた。
隣の席では、男が黙ったまま、こちらのやり取りを見つめていた。
動きはないのに、そこにいるだけで空気が変わる。
美雨は、逡巡してから彼に声をかけた。
「……昨日から、ありがとうございました」
その言葉に、男は僅かに眉を動かした。
「礼なんていらない。あのままじゃ、面倒な事になる」
素っ気ない返事。でも声は少し柔らかかった。
マスターがグラスを拭きながら、ふと声を落とす。
「……ひょっとして、家に、帰れないのか?」
美雨は、どう話そうか迷うが、マスターの視線に促されぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始める。
「さっき、父と母と喧嘩しました。――昨日、何もかもが嫌になって、ちょっとした反抗心?みたいなもので髪を染めちゃったんです。それが気に入らなかったみたいで」
美雨はホットミルクのマグカップを見つめる。
「私、あの家にいると“家の調度品としての娘”でしかいられなくて……自分が誰なのか分からなくなるんです」
「氷室、と言ったな」
カウンターに座る彼の言葉に静かに頷く。
その名前を聞いた瞬間、マスターの手がわずかに止まった。
グラスの中で氷が音を立てる。口の中で、氷室…と呟く声が美雨の耳にも届いた。――美雨の境遇と苗字で、きっと素性が分かってしまったのだろう。それでもマスターはその件に関して根掘り葉掘り聞くことはなかった。
「――まあ、家ってのは、誰でもそんなもんだよ。俺だって似たようなもんだから」
「……マスターも逃げたんですか?」
「まぁな。逃げて、いろいろあって今ここにいるんだ」
そう言って肩をすくめる。
その軽さに、美雨を責める気配はなかった。
「逃げる……逃げても、いいんだ……」
それは誰に聞かせるものでも無い、自分の中に落とすような声だった。
静寂の中、彼が口を開く。
「……家を出るのは必要だったのかもしれない」
美雨が顔を上げる。
切長の瞳は静かで、夜の底を映しているようだった。
「でも、どこかに戻る場所はあった方がいい。立ち止まった時、そこがないと人は壊れる」
美雨は一瞬言葉を失い、やがてゆっくりと頷いた。
「……はい」
その言葉にマスターが心配そうに声を掛けた。
「――今日はどうするんだ?」
「……分からないです。でも……とりあえず、泊まるところを探そうと思います」
「じゃあ、ここより駅前に戻った方が治安は良いよ――お前、送れるか?」
マスターが目の前の彼に声を掛けるが、返答よりも早く美雨が首を振る。
「いえ、昨日に引き続き今日もご迷惑かけるわけにはいきませんから」
「さっきも絡まれていただろ……」
男が、腰を上げようとするのを制する。
「大丈夫です――走って振り切りますから」
マスターにホットミルクの代金を渡し、二人に向かって深くお辞儀をして背を向ける。
扉を開けると、夜の冷気が頬をかすめた。
外は、さっきよりも少しだけ冷たい。
それでも、美雨の胸の奥にはかすかな熱が残っていた。
その熱が、灯りのように小さく瞬く。
まだ行き先は分からない。
けれど、歩き出す足はもう震えていなかった。
※
駅前のロータリーは、夜の熱をわずかに残していた。
タクシーを待つ人々のざわめきと、信号の電子音。
とりあえず今日泊まれそうな所を……と美雨は辺りを見回す。
すると、それに呼応するように、ひときわ静かなクラクションが鳴った。
何故か自分に向けられた合図のような気がして、思わず振り返る。そこには、街灯を反射して艶やかに光る白のレクサスが停まっていた。
濡れたアスファルトに映るボディラインが、雨上がりの空気に溶けている。
ドアが静かに開き、スーツ姿の男が降り立った。
「やっぱり、美雨だ――髪の色が違うから一瞬誰かと思ったよ」
穏やかな声の主は、兄の氷室雅仁だった。――仕事帰りだろうか、グレーがかったシャツに、淡いネイビーのジャケット。
タイはゆるく外され、髪はわずかに乱れているのに、
それすら計算されたような整い方だった――面影は、母の玲子の容姿と瓜二つだが、同じ色のはずの瞳は暖かい。唇は美雨を見るといつも笑みの形を作ってくれる――美雨が家の中で唯一、安心できる存在が、この兄だった。
「……お兄ちゃん」
思わず漏れた声には、安堵が混じっていた。
「どうしてここに?」
問いかけると、雅仁は片手でドアを押さえながら微笑んだ。
「勿論、仕事帰りだよ」
「仕事って、こんな遅くまで?」
「――父さんの明日使う会議資料をまとめてたんだ。そうしたらこんな時間に」
自然な言葉。
けれど、どこか一拍、思考の“間”を感じる。
冷静に選ばれた言葉たちが、逆に美雨の胸をざわつかせた。
「……もしかして、迎えに来てくれたの?」
「うーん……迎えに来たというより……見つけられた、かな。とりあえず、中で話そう?」
その言葉に美雨は頷いた。
ロータリーを出て車が滑り出す。
夜の街を照らすヘッドライトが、濡れた路面に光の帯を描いた。
「その様子だと……かなり叱られたんだろ?」
「……何か、聞いた?」
「詳しくは聞けてない。でも、美雨の顔見れば分かるよ」
笑いながら言ったその声は、どこか静かで、異様に冷静だった。
それなのに、今の美雨にはその冷静さが救いに思えた。
父の怒号、投げつけられた紙幣、
母の「氷室の娘なんだから」という声が、頭の奥で蘇る。
――でも兄は、何も責めなかった。
むしろその沈黙が、優しく、心の奥をくすぐる。
「……家には、帰れないの」
「だろうな。帰っても、顔を合わせたら父さん母さんは厳しく当たるだろうから」
少し迷う素振りを見せた後、雅仁はハンドルを切った――家の方向とは反対、駅の方面に戻り始める。
「お兄ちゃん?」
「うーん……それなら、俺のところにいた方がいい」
「……でも」
「“でも”は要らないよ。美雨」
柔らかい声で、美雨の言葉を遮る。
白い車体は滑らかに走り出し、街の光を流していく。
「俺が、ちゃんと守るから」
その言葉は、まるで約束のように静かで、けれどその奥に――何か鋭く光るものが潜んでいた。
美雨はそれに気づかないまま、夜の街を過ぎる光の流れを、ただ見つめていた。
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