第4話 静けさの中で
白のレクサスが静かに停まる。
高層マンションのエントランスは夜でも明るく、ホテルのような光沢を帯びていた。
磨き上げられた床がライトを反射し、まるでこの場所そのものが「選ばれた人間の証」のようだった。
「……ここに、住んでるの?」
美雨が思わず問うと、玲彌は軽く笑った。
「いや。仕事の関係で借りてるだけだよ。普段は官舎か、家に帰る」
そう言いながら、エレベーターのボタンを押す。
動作に無駄がない。
指の動きひとつさえも、完璧に計算されたようだった。
「……最上階?」
「ここしか空いてなかったんだよ――もしエレベーターが止まったら、とか考えると恐ろしいけどね」
最上階には部屋が一つしか無かった。玲彌がスマートキーをタッチすると、静かな空間にカチッと乾いた音がこだました。
ドアを開くと、ひんやりとした空気が流れ出した。
広々としたリビング。床は白い大理石で、壁にはモノトーンの抽象画。家具もすべて直線的で白で統一されていた。どれも高級品だと分かるが、その温度はどこか冷たい。
――モデルルームみたい――
美雨は思わず息を呑む。
個性や特徴を一切排除した部屋は、兄が言った通り、普段使っているようには思えなかった。――仕事の関係で家に帰れない日に使用しているのだろう。
「……すごい。綺麗だね――」
「気に入ったなら、好きに使えばいいよ。
寝室は奥の部屋で、風呂はあっちだ。隣の洗面に新品のタオルと歯ブラシがまだあったんじゃないかな?」
そう言って玲彌は、先ほど使ったのとは別のスマートキーを取り出すと、リビングのガラステーブルの上に置いた――
「そろそろ戻らないと」
「……戻る?家に?」
「いや、官舎だよ。朝から会議がある」
優しい笑みの奥に、どこか張り詰めた気配がある。
美雨は小さく頷き、リビングを見回した。
ソファの上には、たたまれたままのブランケット。
カウンターの上には半分ほど減ったミネラルウォーター。
使われているはずのない場所に、かすかな生活の痕跡があった。
でもそのときは、疲労と緊張のせいで深く考えられなかった。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
「ゆっくり休みな。明日からまた大学、行けるだろ?」
優しい声。
その一言が、美雨の肩の力を抜いていく。
だからだろうか。
兄がそっと片付けたテーブルの上のグラス。
その縁に、ほんのわずかに残る口紅のような薄い跡に――
美雨は気づけなかった。
兄は一度美雨の頭を撫で、完璧な微笑みを浮かべると、そのまま背を向けた。玄関の扉が静かに閉まる。足音が遠ざかって行く。
それを聞き届けて、美雨は動き出した。リビングを出てバスルームに向かう。やがて、かすかにシャワーの水音が響いてきた。
カーテンの隙間から、夜景の光が細く差し込む。
誰もいない静かなリビング。
壁際に置かれたモンステラの影の中――
赤い点が、ひとつ、微かに瞬く。
その光が、ほんの一瞬だけ壁を照らし、
やがてまた闇に溶けた。
誰も、それに気づく者はいなかった。
同じ夜。
BAR LUNAでは、ジャズの低い音が静かに回っていた。
グラスを拭いていたマスターが、その手を止めてぽつりと呟く。
「……さっきの娘――」
カウンターの端に座る男が、顔を上げた。
答えずに、指先でグラスの縁をなぞる。
氷の音がひとつ、沈んだ。
「――氷室雅興の娘、だったんだな……」
マスターの声は穏やかだったが、探るような響きを帯びていた。
男は少し間を置き、低く答える。
「財務大臣の。表向きは清廉潔白、理想的な政治家だ」
マスターは苦笑する。
「表向きは、な。だが、あの家の“清廉”は作りものだ。
汚れ話が出ても、一晩で消される。
それを仕事で見てきた人間も多い」
その声の奥に、わずかな疲れが滲んでいる。
氷が溶けていく音だけが、二人の間を満たした。
男は僅かに目を伏せ、口を開く。
その声は、考えて言葉を選ぶというより、記録を再生しているようだった。
「――氷室雅興の息子、大臣秘書官の玲彌も世間からの人気が高い――完璧な息子、氷室大臣は優秀な後継に恵まれた、と」
それを聞いたマスターは手にしたグラスを静かに置くと、低く呟いた。
「裏じゃ、きな臭い話がある――とある官僚の息子が渋谷に部屋を持ってて、気に入った女を囲ってた。……けど、その女たちは、誰も戻ってこなかった。戸籍ごと消えてるって話もある」
男は顔を上げない。酒に浮かぶ氷の塊をじっと見つめている。
「あの事件も――氷室絡みじゃないか?」
マスターの問いに、男は何も言わなかった。
ただ、目の奥で何かがゆっくりと光を帯びた。
マスターはグラスを棚に戻し、カウンターに背を預ける。
「で、どうするつもりだ」
「……別に。何も」
短い返答。その声は酷く乾いていた。
「あの娘については、助けただけだ――関係ない」
「“関係ない”で済むなら、今こんな苦労はしてないだろ?」
笑いながらマスターが振り向く。その声は柔らかいのに、どこか棘を含んでいた。――醒めた視線が男を射抜く。
沈黙。
時計の針がひとつ進む音が、やけに遠く響いた。
マスターが静かに続ける。
「……氷室という家に近づくな。
動くときは、誰かが必ず潰れる。
お前が巻き込まれたら、尻拭いは俺になる」
男は口の端を上げた。
「心配性だな」
「間違ってないだろ?」
マスターが今度は軽く笑った。
それ以上は、どちらも何も言わなかった。
年代を感じさせるジャズが、まるで二人の隙間を縫うように流れていた。
外では、雨の残り香だけが街に漂っていた。
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