第2話 戻れない家

 大学の正門に着く頃には、すっかり空が明るくなっていた。

 構内を吹き抜ける風は相変わらず生ぬるく、昨日の雨の名残が木陰に小さな水滴を光らせている。

 普段と変わらない朝の光景。

 だけど、色素の抜けた前髪が視界を横切るたび、世界がほんの少しだけ違って見えた。――ほんの少しだけ。


 学生が行き交う講義棟の前で、聞き慣れた声が美雨を呼び止めた。

 

 「……美雨?」


 顔を上げると、そこに彼がいた。

 昨日、ガラス越しに見たあの笑顔で。

 昨日別れた時と同じ服装。

 それなのに、胸元から漂う香りだけが違っていた。

 彼の香水ではない。

 もっと華やかで、肌の匂いを思わせる甘さがあった。


 「おはよ。髪、染めたんだ?」

 

 軽い口調で言いながら、彼は美雨の頭の上からつま先まで視線を滑らせた。

 

 「へぇー……マジか。いいとこの箱入り娘が?清楚キャラ卒業ってやつ?」

 

 唇の端を上げ、わざとらしく首を傾げる。

 

 「前の黒髪、可愛かったけどなー。なんつーか、今のほうが……遊び慣れてる感じ、するね?」


 その言葉の裏に、笑いを混ぜた挑発が滲む。

 褒め言葉ではない。

 視線から粘つくような熱が伝わってくる。


 「ってか目の下、クマやばくない?昨日なにしてたの?」

 

 美雨が何も言えず俯くと、彼は勝手に合点がいったように笑った。

 

 「なるほどねー。夜遊びデビュー?うわ、意外!」

 

 冗談めかした声の奥に、探るような色がある。


 「……やめて」

 

 小さな声で言っても、彼は気づかない。

 

 「美雨もそういう“お年頃”ってやつ? ま、悪くねぇじゃん」

 

 そうやってニヤリと笑った後、彼は、ぐい、と腰を強く引き寄せてきた。

 指先が触れた瞬間、全身が拒絶で強張った。触れられること自体が嫌だった。

 吐き気にも似た拒否反応。

 ――あの人は、何もしてこなかった。

 昨夜の記憶が一瞬よぎる。

 距離を保ったまま、ただ静かに“そこにいた”黒いシャツの男。

 その無音の存在が、目の前の騒がしさをいっそう汚れたものに見せた。


 「……いや」

 

 声が震える。

 腰にかかる手を払いのけようとするが、彼は笑って力を抜かない。

 

「なに照れてんの。誰も気にしてねぇよ」

 

 吐息が近い。甘い香水の残り香が、鼻の奥を刺した。


 「……一限、もう始まるから――」

 

 声がかすれる。

 ようやく力を抜いた彼の手を外し、美雨は半歩後ずさった。


 「そっか。相変わらずつれないねぇ」

 

 わざとらしく肩をすくめて、彼は笑う。

 

 「……でも、黒髪のときよりエロくなったかも。次は、逃げんなよ」

 

 その言葉と笑顔が、美雨の胸の奥を鋭く刺した。

 何も言えなかった。

 足早にすれ違うと、彼のシャツの端から、また、人工の花の香りがふわりと漂った。

 それだけで、心臓が跳ねるほどの嫌悪が走った。


 美雨は歩く。

 講義棟の扉を抜け、ざわめきの中を通り抜け、やっと辿り着いた教室。

 廊下を行き交う学生の笑い声が、軽く響いてくる。

 窓際の席に腰を下ろす。

 朝の光が眩しくて、目を細める。

 いまこの瞬間、自分以外の物が、やけに遠い世界のように感じられた。


 教授が黒板に刻みつけるチョークの音が、乾いた雨粒のように響いた。

 前の席では、誰かのスマホが小さく震えている。

 その微かな音達ですら、今の美雨にとっては、神経に触れるようにざわついた。


 「はいここまで。次回は次のページから」

 

 教授の声に、心臓の鼓動がひとつ遅れて響く。

 ノートの文字が波打って見えるのは、自分の心が落ち着かないからだろうか。――授業終わりの学生達の賑やかな声を聞きながら、美雨は窓の外を見た。

 窓の外の空は少し曇っていた。

 また雨が降るのだろうか。

 そんなことを考えながら、シャーペンを置いた自分の手に視線を落とす。

 ――あの人は、視線も、手も私に触れようとしなかった。

 昨夜の静けさと、現実の喧騒の対比が、

 痛いほど胸を締めつけた。


 家に帰りたくない理由をいくつも思い浮かべながら、

 それでも美雨の足は自然と、あの家の方向へ向かっていた。


 *

 

 氷室家の門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 湿った風が敷地の深いところから吹き上がり、頬を撫で付けていく。

 玄関まで続く石畳は昨夜の雨で黒く光り、磨かれた石に薄い雲が歪んで映っていた。足を踏み出す度に、窪みに溜まった水が細く震え、誰かの影を引きずっていくような気がする。


 扉を開けた途端、母・玲子の甲高い声が飛んだ。

「美雨……! どこに行っていたの? 電話にも出ないで!」

 この家を知らない人が聞けば母親らしい声。けれども、その奥にあるのは“心配”ではなく、整えられた家の表面が乱れることへの“苛立ち”だと、美雨はもう知っていた。艶のある玄関床に声が跳ね、壁にかかった油絵の静物画まで震えているようだった。

 返答するよりも先に、奥の廊下から、重みを帯びた足音が真っ直ぐに迫ってくる。

 父・雅興だった。磨かれた床板に室内履きの靴底が刻む音は、家の呼吸を乱す合図のように感じられた。

 

 「おい、美雨」


 低い声に、肩の内側の筋肉が固まる。

 その視線が、美雨の髪に落ちた瞬間、空気がひりついた。冷房の風が流れているわけでもないのに、皮膚の表面だけ温度が下がる。


 「……それは、なんだ」

 「え……」

 「その髪だ!」


 次の瞬間、手が伸びる。

 前髪を鷲掴みにされ、反射で喉が鳴った。視界が一段上に引き上げられる。

 

 「誰の許可で、そんな色にした!」


 「……ごめんなさい」

 

 絞り出した声は震えていた。

 

 「やってみたくて、少しだけ――」


 「やってみたくて?ふざけるな!」

 

 父の声が、玄関の壁を震わせた。

 握る手に力がこもり、皮膚の下で神経がちりちりと痺れる。痛い、より先に、呼吸がうまく吸えない。涙がこぼれるのを堪えるのがやっとだった。――そして、沈黙が落ちる。

 美雨にとっては、怒鳴り声よりも、その沈黙の方が怖かった。沈黙はこの家の主の武器だ。言葉にならない部分を、家の規律が補填してしまう。――いつも、そうだった。


 「この家の娘が……みっともない真似をして……」

 

 父の、荒い息だけが耳元に落ちる。

 その目は、美雨という個人ではなく、“氷室家を形成するパーツ”の汚れを見ているようだった。怒りは彼女自身にではなく、政治家の娘に相応しい完璧な容姿という“記号”に向けられている。


「あなた、やめて! そんなことしても何も変わらないでしょ!」


 割って入る母の湿った声。けれど芯は乾いている。“母”という表面だけをなぞり、滑り落ちていく。


 母の声にようやく父の手が離れた。

 解放された髪が肩にぱさり、と落ち、後から頭部にじんわりとした痛みが発生する。震える指先が無意識に前髪を撫でるが、整うはずもない。鏡がなくてもわかる。今の私の存在は、この家では許されない。


 「そんな頭で、うちの敷地を跨げると思うな」


 低く、冷えた声。

 次いで、革の財布が開く乾いた音。数枚の紙幣が胸元に投げつけられ、ぱらぱらと玄関の床に散った。湿った地面に落ちたそれは何の音もしなかった。


 「これで戻してこい」


 父はそのまま背を向け、廊下の奥へ消える。靴音が遠ざかるにつれ、家の空気は元の形に戻ろうとして、いっそう冷たくなった。

 母は何も言わず、ただその背中が角を曲がるまで見送った。


 美雨はしゃがみ込んだまま、散らばった紙幣を見下ろす。

 拾う気になれない。

 それは父からの“拒絶の証”だった。

 玄関で乾き切らなかった雨の跡が、ゆっくりと一枚の端に染み込み、色を暗くしていく。


 「……美雨」

 

 母の声。

 顔を上げると、母は腕を組んだまま立っていた。――色素の薄い髪は後ろで結い上げられ、整った額が露わになっている。細い眉の下の青みがかかったようにも見える瞳は冬の湖面のようだった。通った鼻筋の下の唇は薄く形が良い。相変わらず、綺麗だな、とどこか遠く他人事のように思う。――血の通わない彫刻みたいな美。――その瞳は酷く醒めていた。

 表情には、心配の色も慰めの感情もない。父、雅興の前では美雨を案じる言葉を選んだが、この人はいつもこうだ――父の前でだけ“母”を演じる。――美雨は、物心付いてから、母からの愛情を感じたことは一度も無かった。


 「どうして、こんなことをしたの」

 「……ただ、少し変わりたかっただけ」

 「変わる? どこを変えるというの?あなたは氷室のーー雅興さんの娘というだけでもう十分恵まれているでしょう」


 母はため息をついた。

 

 「あなたは雅興さんの立場を考えたことある?財務大臣なのよ?その氷室大臣の娘がそんな格好をしていたら、何を言われるか……」


 ――ああ、そうか。

 母の言葉が、美雨の胸で乾いた音を立てて落ちた。

 母にとって“私”は、家の正面玄関に置く高級な調度品のようなものなのだ。埃を払われ、角度を直され、光の当たり方まで指定される。それが“よい娘”の形。


 美雨は答えなかった。喉の奥で言葉が膨らんで、形にならない。

 視線を落とす。床に散らばる紙幣。

 いち、にぃ、さん、しぃ……はちまい。父の財布から乱暴に引き抜かれた束の端。どれも角が丸く湿っていく。

 拾えば、命令に従うことになる。拾わなければ――この家は美雨をどこまでも拒絶するのだろう。

 ――息が苦しい。


 「早く拾いなさい」

 

 母の声が鋭くなる。

 

 「せっかくお金をくださったのに、雅興さんに失礼でしょ」


 「……いらない」

 

 小さな声だったが、空気は確かに震えた。――選んでしまった。一度出た言葉はもう取り返せない。その言葉に母が眉をひそめる。

 

 「何ですって?」


 美雨は顔を上げた。我慢の限界だった。

 涙は、出なかった。代わりに喉から叫ぶような声が出る。

 

 「もう、いい。戻さない。――この髪も、私も」


 胸の奥のどこかで、カチャン、と何かが静かに外れた気がした。

 母の言葉を待たず、美雨は踵を返した。バタン!とわざと大きな音を立てて、重い玄関の扉を閉める。

 家の中の温度が、途端に遠のく。目の前の空はもう昼と夜の境目みたいな色になっていた。

 後ろから母が呼ぶ声がした気がする。それでも、美雨は振り返らない。

 駆け出す。――門の内側の空気が自分を引き留めようとまとわりつこうとする。

 それを振りほどくみたいに、もう一歩、また一歩。確実に足を踏み出していく。――角を曲がる頃には、家の匂いは完全に消えていた。振り返るが、母は追って来なかった。

 生ぬるい風の中に、夜の気配が混ざっていく。――美雨は息を整え、そのまま歩みを進めた。


 


 

 

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