新月は雨を包む
長島純花
第1話 雨夜の出会い
七月の夜、街灯の下で雨粒が白く砕けていた。
父の書斎からは、ニュース番組の低い声が漏れていた。
いつものように「財務大臣・氷室雅興」と父の名がアナウンサーに呼ばれる。
美雨は思わず耳を塞ぎ、そのまま玄関を飛び出した。
湿った空気が頬にまとわりつく。
背後ではまだ両親の声が響いていたが、もう振り返ることはできなかった。
革靴の音が石畳を叩く。
傘も持たずに走るうち、胸の奥の熱が涙と一緒に滲んでいく。
息が荒くなるたび、喉の奥が焼けるように痛んだ。
行き場もなく、駅前の明かりが滲んで見えた。
とりあえず雨を避けようと、目に入ったカフェへ駆け込む。
店内は暖かく、甘いミルクの香りが漂っていた。
窓際の席に腰を下ろし、ハンカチで濡れた頬を押さえる。
カップの湯気が、少しだけ心を落ち着かせた。
そのとき――視線の先、ガラスの外に見慣れた横顔が映った。
軒先の下。
彼――同じ大学で一年先輩の彼が、別の女の子と並んで雨宿りをしていた。
女の子が差し出した傘の中で、二人が肩を寄せ合う。
雨粒の向こう、彼は何かを言いながら笑っていた。
声は聞こえない。
けれど、その唇の形で分かってしまう。
――“お前といる方が楽しいな。”
彼女の笑いに、彼が手を伸ばす。
頬に触れ、軽く髪を撫でた。
その仕草を、美雨は知っていた。
あの優しさも、あの角度も、全部自分に向けられていたものだった。
喉の奥が凍るように痛い。
呼吸をひとつ飲み込んで、マグカップの熱を握りしめる。
声を出せば、何かが壊れてしまいそうだった。
雨音だけが世界を満たしていく。
ガラスの向こうで、二人は傘を開き、並んで歩き出した。
傘の下に灯る街の明かりが、ふたりの輪郭を溶かしていく。
“あいつは、つまらない。”
数日前、彼が笑いながら友達に話していた声が、耳の奥で蘇った。
講義のあと、「カラオケ行こう」と誘われたのを断った時、
「真面目だね」と笑った声の奥に、もう冷めた色があった。
涙がこぼれそうになり、美雨はそっと立ち上がる。
会計を済ませて店を出ると、雨は一段と強くなった。
傘を持たない肩に冷たい水の粒が打ちつける。
それでも止まらなかった。
アスファルトを叩く雨の音。
信号の赤が濡れた路面に散る。
息が切れたころ、ふと目に留まったのは、
ガラス張りの美容院の灯りだった。
現実から切り離されたような、白い光。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、ドライヤーの音と、柔らかな香りが迎えた。
鏡の中で目が合う。
泣き腫らしたままの顔。
そこに映っていたのは、まだ幼い“氷室美雨”だった。
――変わりたい。
その思いだけが、胸の奥で形を取った。
明るく染められた髪。
肌の白さを際立たせる化粧。
鏡の中の少女は、もう“氷室家の令嬢”ではなかった。
見慣れない姿にぞくりとしたが、「似合ってるよ」という美容師の言葉と、外の雨が背中を押した。
夜の街に出ると、化粧の匂いが雨に溶けていく。
頬を叩く雨粒が、一つ落ちるたびに、もう戻れない気がした。
雨に打たれながら歩くうち、繁華街の近くまで来ていた。
行き交う人の目に、自分だけが不釣り合いに見える。
ネオンに照らされた雑居ビルの並ぶ通り。
その隙間、一階の奥で、小さなバーの看板が光っていた。
木製のドアの前で立ち止まり、美雨は深呼吸をした。
――私を知らない、誰かと話したい。
そう思って、ゆっくりと手を伸ばした。
木の扉の向こうから、低いジャズの音が漏れていた。
雨の匂いと混じって、それはどこか懐かしかった。
美雨は、指先に残る雨を拭うことも忘れたまま、ドアノブを回した。
落ち着いた照明と、ほのかに甘い酒の匂い。
カウンターの奥で、黒いシャツにベストを重ねたマスターがグラスを磨いていた。
年齢は三十代半ば。
整った顔立ちに、控えめな色気と疲労の影が同居している。
声は低く、柔らかく、それでいて人を近づけすぎない。
夜を知る男の静けさがあった。
「……何にします?」
その声に、美雨は少しだけ戸惑いながら答えた。
「甘いのを」
差し出されたカクテルは、淡いピンクのグラスの中で氷がきらめいていた。
ひと口飲むと、熱と苦味が喉を焼く。
「ごほっ……けほっ……」
「強かったかな。」
マスターの目がわずかに笑った。
「無理しないでいい。ここは、雨宿りの場所でもあるから。」
美雨はかすかに頷いた。
そのとき、店の外を男女が通り過ぎた。
二人は、上の階の暗い部屋の扉から出てきたようだった。
肩を寄せ、笑いながら傘を差していく。
その光景を、思わず目で追ってしまう。
――今日、寝る場所……。
「……上のホテル、泊まれるんですか?」
思わず口をついた問いに、マスターの手が止まった。
氷をすくっていたトングを静かに置き、彼女を見やる。
「うーん……あそこはね、君にはまだ早いと思うよ。そういう目的の客が多いから」
声は穏やかで、低く、どこか困ったような笑いを含んでいた。
「ここで少し、温まっていけばいい。」
カウンターの中で氷が静かに溶けていく。
沈黙に耐えきれず、美雨は両手でグラスを包み、小さな声を漏らした。
「……さっき、彼氏が……他の女の子と一緒にいるのを見ました。」
言葉にした瞬間、胸が締めつけられる。
「私、前に、“つまらない”って、笑われて……」
マスターは黙ってグラスを磨き続けた。
その静けさが、かえって言葉を引き出していく。
「親からも、ずっと“ちゃんとしなさい”って言われてきて……
期待に応えなきゃって思ってたけど……もう、疲れました」
声が震え、涙がまた頬を伝った。
化粧の下で、涙があふれて止まらない。
彼は何も言わず、水のグラスを置いた。
「お酒より、こっちのほうが効くよ。」
その声は柔らかく胸に沁みていった。
不意に、カウンターの端で、静かにグラスが置かれる音がした。
顔を上げると、奥の席の男がこちらを見ていた。
長く艶やかな黒髪が印象的な男だった。切長の目に、淡い光が反射する。
「……泣きすぎだ。」
低く、抑えた声。
「酒がまずくなる。」
美雨は慌てて口を押さえた。
「す、すみません……」
彼は視線を逸らし、グラスを指先で回した。
ただそれだけなのに、冷たい声が胸の奥に焼きついた。
時計の針は、いつの間にか日付を跨いでいた。
氷の溶ける音も、火の残り香も、ゆっくりと夜に溶けていく。
外の雨は細くなり、窓の灯りが滲む。
美雨はグラスを握ったまま、ほとんど動かない。
赤く潤んだ目だけが、カウンターの木目を追っていた。
やがて、肩が小さく揺れる。
泣き疲れた体が、重力に負けて沈んでいく。
マスターは一度だけ視線を向けたが、何も言わなかった。
店内のBGMが途切れ、雨音だけが残る。
夜は、静かに、深く沈んでいった。
*
雨の音が、店の奥で静かに響き続けていた。
店の壁の時計が二度、鈍く鳴った。
夜は底に沈みつつあった。氷が溶ける音も、夜の匂いに溶けていった。
美雨はカウンターに頬を預け、細い肩を小さく上下させていた。
泣き疲れ、力尽きるように眠っている。
マスターは一度視線を向けたが、起こすことができなかった。
グラスを拭いていた手が止まる。
――困ったな。
閉店の時間を過ぎても、少女は目を覚まさない。
この店は小さく、人の出入りも多くない。
だがそれだけに、こうした「面倒事」には慣れていなかった。
「さて、どうしたもんか……」
つぶやきながら、マスターは指先で前髪をかき上げた。
淡い照明に光る瞳が、眠る少女をちらりと見る。
その時、カウンターの端の椅子が小さく軋む。
黒いシャツの男が、無言のまま立ち上がっていた。
伏せた目が、眠る少女の方を捉えている。
「……放っときゃそのうち起きる」
マスターが言うと、男は視線を動かさずに答えた。
「そのうちじゃ、困るだろう。あんたも」
「はは、言うねぇ」
口の端をわずかに上げて笑う。
「わざわざ厄介事を拾ってくんのか?」
皮肉のように言いながらも、
声の奥にはどこか柔らかい響きがあった。
男は何も返さず、静かに歩み寄り、眠る美雨を見下ろした。
――まだ子どもだ。
濡れた睫毛の下に、整った鼻梁と尖った唇。
眠る前に見た琥珀色の瞳が脳裏に残っている。
庇護と嗜虐――世の男は、その相反する欲に駆られるのかもしれない。
だが彼の胸の奥には、別の感情がわずかに沈んでいた。
あの夜、資料の束をめくるたび、
見慣れた新聞の一面に映っていた政治家の家族写真。
父親の隣に立っていた少女――
その横顔が、いま目の前で静かに眠っている。
――“あの大臣の娘”が、こんな場所で。
驚きも、興味もなかった。
ただ、皮肉のような静けさだけが胸の奥を掠めた。
「おいおい、まさかそのまま連れ出す気じゃないだろうな」
マスターが軽く笑う。
「店の外、雨ひどいぞ。
それに……連れて帰って後々面倒ごとにならないか?」
男は短く息を吐いた。
「深入りはしない」
「そう言うやつほど、深入りするのをよく見てきたぞ」
マスターは肩をすくめた。
その仕草の裏に、夜を渡る人間だけが持つ余裕があった。
男は無言で少女に手を伸ばした。
小柄な体は拍子抜けするほど軽かった。
白い指が彼の胸元にかかるが、抵抗はない。
マスターは苦笑を浮かべ、カウンター越しにそれを見送った。
「……ま、気をつけなよ。変な気起こさないようにな」
そう言うと軽く髪を掻き上げながら、グラスを再び手に取った。
雨音が強まる。
扉の鈴が、最後の客を送り出す音を立てた。
雨脚は、店を出た途端にまた強くなった。
街灯の光を反射して、舗道の水たまりが細かく波打っている。
抱き上げた少女の体温は、雨の冷たさと混ざり合って奇妙に現実味を帯びていた。
細い腕、濡れた髪、肌を伝う水滴。
そのすべてが、夜の湿った匂いと溶け合っていた。
「……軽すぎる」
思わずこぼれた声は、雨に飲まれて消えた。
傘はいらない。
彼はバーと同じビルの上階にある安ホテルを目指し、錆びの浮いた非常階段を登る。
――(私、そういうの全然知らなくて……)
ふと、さっき聞いた大人になりきれない声が耳の奥でこだまする。
周囲の喧噪から切り離されたような雑居ビルの二階。
薄暗いアーケードの奥で、ひとつだけ古びた看板が点滅していた。
――HOTEL Sirius。
擦れた白いネオンが、雨粒の中で瞬く。
どこか場末の匂いがする。
男は一瞬だけ足を止めたが、そのままドアを押した。
中は、外よりも温かい。
安物の芳香剤と湿ったカーペットの匂いが鼻をつく。
フロントの奥から無言のまま鍵が滑り出てきた。
無駄のない動作で鍵を受け取り、エレベーターに乗り込む。
少女の髪先がシャツに触れて、しっとりと冷たい。
濡れた肩がかすかに震えた。
エレベーターの磨かれない鏡に映る二人の影――
どちらの顔も、輪郭だけが淡く溶けている。
湿っぽい匂いの廊下を歩く。
こんな場所でも防音はしっかりしているのか、何の音もしなかった。
いや、こんな場所、今時は援助交際でも選ばれないのだろう。
部屋のドアを開けると、古びた蛍光灯がちらついた。
壁紙は少し剥がれ、ベッドのシーツは真新しいのにどこか冷たい。
それでも彼は迷いなく彼女をベッドの端に降ろした。
「……寝かせるだけだ」
低く呟く声が、誰に向けたものか自分でも分からない。
濡れた髪を整えようと手を伸ばしかけ、途中で止める。
指先に触れそうな距離で止まったその手を、拳にして引っ込めた。
雨の音が遠くに薄れていく。
外では、まだ誰かが夜を彷徨っている。
男は一度だけ息を吐き、椅子を引き寄せてベッドのそばに腰を下ろした。
少女の呼吸は穏やかで、時折小さく寝言のような音が漏れる。
その声が、なぜか心臓の奥をゆっくり掻きむしる。
――放っておけばよかった。
頭のどこかで、冷静な声が囁いた。けれど視線を外すことができない。
椅子の背にもたれて目を閉じる。距離は保つ。夜のこちら側に、彼女を引きずらないために。
湿った夜の空気の中で、時間だけが静かに流れていった。
*
カーテンの隙間から、灰色の朝が差し込んでいた。
古びた蛍光灯のちらつきは消え、代わりにぼんやりとした光が部屋を薄く満たしている。
ばたり、とどこかのドアが大きな音を立てた。駅が近いからか、通勤のざわめきがよく響く。
それが、この夜が確かに終わったことを告げていた。
美雨は夢の底からゆっくり浮かび上がるように目を開けた。
天井を見上げ、知らない部屋だと気づくのに数秒かかった。
――頭が痛い。泣いてからの記憶が……ない。
体を起こすと、肩にかかっていたジャケットが滑り落ちた。
重さと温もりだけが、まだそこに残っている。
部屋の隅では、黒いシャツの男が椅子に腰をかけたまま、目を閉じていた。
眠っているようにも見えたが、呼吸が静かすぎて判断がつかない。
距離がある。
ベッドから数歩離れた場所。
彼はその“間”を守るように、ただそこに座っていた。
光がカーテンの隙間から伸び、彼の髪の縁を淡く照らした。
黒の中に、金の糸のような反射。
その一瞬の光だけで、この部屋の湿った空気が少し乾いた気がした。
「……あの」
声をかけると、彼はゆっくりと目を開けた。
焦点が合うまでの数秒が、妙に長く感じられた。
「私に……何か、しましたか?」
掠れた声だった。
恐怖というより、確かめるような声音。
彼は少しだけ眉を動かし、低く短く息を吐いた。
「……するわけないだろ」
その一言が、嘘みたいに穏やかに響いた。
美雨は小さく「そう、ですよね」と呟き、視線を落とす。
ベッドの白いシーツに残る、髪の跡。
そこには自分が寝ていた形跡しかなかった。
ほう、と息がこぼれる。
――よかった。
胸の奥で、ようやく言葉にならない安堵が形を持った。
彼は視線を外し、両手を組んだまま膝の上に置いた。
何かを言うでもなく、ただその姿勢で静止している。
壁際の時計の秒針だけが、一定のリズムで音を刻んでいた。
彼は夜の間、何もしていなかった。
眠るでもなく、考え込むでもなく、
ただこの灰色の光が射すまでの時間を、待っていたのだ。
美雨の存在を見張るようにでもなく、
目を逸らし続けるようにでもなく。
彼はそこに、ただいた。
「……ありがとう、ございます」
小さな声でそう言うと、彼は軽く目を伏せただけだった。
「……帰れ」
短い言葉。
怒鳴るでも、冷たく突き放すでもない。
ただ、静かに線を引くような声音。
美雨はベッドサイドに置かれた鞄を手に取り、立ち上がった。
腕時計の針は、ちょうど七時を指している。
直接大学に行けば、一限には間に合うだろう。
けれど、このままの姿ではあまりに現実離れしていた。
――一度、帰ろう。
鏡の前で髪を整える。
化粧は落ち、目の下には赤い跡が残っていた。
その頬の陰影を、朝の光が淡く撫でていく。
「……あの、名前……」
言いかけた時、彼は美雨に背を向けたまま言った。
「知らないままでいい」
その声の端に、かすかな迷いが滲んだ気がした。
でも、美雨はそれを確かめるように見ることができなかった。
それきりだった。
美雨は唇を噛み、頭を下げてドアを開けた。
***
氷室家の門扉をくぐると、朝の空気がひんやりと頬を撫でた。
玄関脇の植木は雨に洗われ、瑞々しく光っている。
いつも通りの“整った家”の匂い。
その秩序が、今だけ少し遠く感じた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
玄関に出てきた家政婦――藤原が、静かに頭を下げた。
その視線がふと、美雨の髪に留まる。
いつもより明るく染まった色に、一瞬だけ目を見張り、何か言いかけて、やめた。
「お早いお帰りで。……朝のお食事をご用意しますね」
「ありがとう、藤原さん」
美雨は小さく頷き、玄関を後にした。
母の姿はない。
いつもならリビングにいるはずの母は、
今朝もドアの向こうで沈黙を保っている。
自室のドアを閉めると、雨上がりの湿った香りがわずかに残っていた。
クローゼットを開け、白いブラウスとベージュのスカートを取り出す。
化粧台の前に座り、鏡越しに自分を見た。
――見慣れない。
でも、確かに“氷室美雨”のままだ。
ファンデーションを重ね、
涙の跡を消していくたびに、
心の奥の痛みが少しずつ薄まっていく。
だけど完全には消えなかった。
「行ってきます」
小さく呟いて、取っ手に触れた。
朝の光が、廊下に淡い影を落とす。
足元に残った小さな水たまりに、自分の姿が映る。
ひと息ついて、ドアを開けた。
外に出ると、雨はすっかり上がっていた。
舗道の端にはまだ濡れた光が残り、空気には洗われたような匂いが漂う。
通勤の車の音、交差点の信号音、朝の匂い――
夜よりもずっと現実的な街の中を、美雨はゆっくりと歩き出した。
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