16話 可憐な少女はもういない。


彼女が、他の男の腕に抱かれた瞬間――

世界の音が止まり、俺の中の光が消えた。

 

金も、コネもない俺には、隣に立つ権利などあるはずもない。


幸い、彼女の結婚相手は裕福で、伯爵位を持つ若き資産家。

身を引くには、相手の条件は十分だった。


それでも――忘れられなかった。

せめて遠くからでも見守ろうと、マイリー伯爵の領地を訪れた。


子を二人授かり、父からの言伝では、幸せに暮らしているという。

だが、久方ぶりに目にした彼女の姿は、あの頃の煌めきを失っていた。


擦り切れた指。

かつて光を宿していた瞳は、いまは憂いと危うさを帯びていた。


気になり、部下に調べさせると――

彼女は小部屋に追いやられ、夫である伯爵は、愛人を傍においているという。


ひと目見ることも、手紙を送ることも叶わぬ日々。

ただ、いつ会うかわからない彼女に――

直ぐに手渡せるように、住所の書かれた紙片を懐に忍ばせていた。


機会をつくることもなく、ただ、待ちわびていたからこその再会。

それだけに、この知らせは、心の奥に深い衝撃をもたらした。


 「イニーを取り戻すためなら、

  いっそ、この地を捨て去ろう。」


それが、マルセルの答えだった。


――だがイネスは、意外な言葉を口にした。


「えぇ、わたし幸せよ。」


言いきるその笑みは、どう見ても本心ではない。

マルセルにはわかっていた。

彼女が嘘をつくとき、下唇を噛みながら笑う癖があることを。

昔から、何も変わっていない。


懐かしさに、マルセルは微かに口元を緩めた。

無理に真実を引き出そうとは思わない。

彼女を困らせたくはないから。


 「そうか、なら安心した。

  君は、俺の大切な人だから。」


 甘さに酔わせながら、

 彼女の心を、俺の熱で

 ゆっくりと溶かしていく。

 

「なんでも相談にのる。」


  イニー……

  どうやって、君を奪おうか……。


優しく包み込む笑顔の裏に、鋭い意図が潜んでいることを、マルセル自身も隠してはいなかった。


  ――愛してる。

  俺の愛しき人。


壁に掛けられた一枚布。

イネスは、マルセルの視線から逃れるように、ただそれを見つめた。



――



帰路。馬のくつわの微かな金属音が、琥珀色の空に優しく馴染む。



「もう、こんな時間……」



マルセルとは昔話に花を咲かせ、子の服を仕立てる布まで譲ってもらった。

頬を撫でる風が、今日の出来事をそっと思い出させる。


 「縫製盤の技術を学びたい?」

 「それは容易なことじゃない。」


まだ国内では珍しい、足踏み式の縫製盤ほうせいばん

布を滑らせながら糸を走らせるその仕組みに、イネスは心を奪われた。


 「まず、縫製の腕が、

  どれ程身に付いているのか、

  君の手先を見させてほしい。」


マルセルの言葉には温もりが宿っていた。

その優しさが、胸の奥に小さな波紋を立てる。



肩先に触れそうな距離、低く響く声、視線の奥の真剣さ。



ーー彼の中に潜む、野心を宿した瞳。



眼光鋭く、幸せかどうか問いただす顔と、ふと見せる朗らかな笑顔。

その垣間見た二面性に、イネスは抗えぬ魅力を感じたのも事実。



 きっと彼は、わたしのためなら…。



目に焼き付いた、壁に飾られた、揃いの百合の布。

あれは、愛の証。

ふと見せる彼の笑顔に、私はあえて気づかないフリをして微笑んだ。

彼の熱を引き出せば、きっと私の望む未来に近づける——卑怯にも打算。



距離を詰められても、答えられないくせに。

それでも手放したくはなかった。


  心は、もう……

  誰にも奪われたくない。


死に戻ったイネスにも、また別の二面性があった。

マルセルの知る、可憐だった少女の面影は、もうどこにもない。


今、怖いほど静かな胸の鼓動――

それが、もう少女ではないしるし。


けれど、弱さを知る私こそ、本当の“女”なのかもしれない。 


イネスはネックレスの石をそっと撫でた。

小さく、息がこぼれる。


胸の奥には微かに残るざわめきも。

やがて、糧に変えられるだろう……。



馬の手綱を握る手元で、小さな影が併走している。



 「俺はまだ、仕事が立て

  込んでるから、

  かわりに君を見送らせる」


マルセルがそう告げ、部下の青年が並んでくれた。

その安心感に、胸の奥の緊張が少し和らぐ。


夕陽が沈みゆく中、イネスは胸の奥で、ひとすじの糸を結んだ。


――もう後悔したくない。

そして小さな決意を、そっと抱きしめた。



――



 「こんな時間まで

  どこに行っていた……!?」


鉄柵の門構え。

そこでダニエルはイネスを待ち構えていた。


 「……街まで布を買いに。」


ダニエルは、マルセルの部下の青年に睨みを利かせた。

 

 「こんな時間まで、

  わたしの妻が、

  大変お世話になったようで……。」


皮肉だろう。

イネスが馬から降りようとすると、わざとらしく気遣いをみせ、その肩を抱いた。



「……いえ、あの…」


困りが顔の青年と目が合うと、イネスは小さくため息をついた。

 

 「彼は送ってくれただけ。」


 「なぜこんなやつが…」


ダニエルの態度から、何がなんでも聞き出してくるだろう。

イネスは観念したようにダニエルに説明を始めた。


 「つまり、幼馴染みの

  工房に行き、

  布を買っていたと?」


イネスから、鋭い目を青年に映したダニエル。


 「名は?」


 「ロビンで……す。

  あっ、主のことですね……

  すみません……。

  マルセル・モンテリオ様に

  なります。」


睨まれた青年ロビン。

ダニエルの出す威圧に耐えられないようだった。


 「マルセル・モンテリオ……

  あぁ、少し前、

  うちで土地を買った

  あの実業家か……」

 「それより、こんな頼りない男に、

  見送りさせるとはな……

  呆れる。」



  ――ダニエルは、何を

  考えているの?

  マルセル兄さんに

  迷惑がかかったら……


回帰前、不満を漏らすイネスの口を、父の事業を潰すと、何度も口を塞いできた――ダニエル。

イネスは、マルセルに迷惑が掛かるのではないかと不安になった。


 「……ああ、そうか、彼が、

  アリーナの言っていた人物か」


 「ただの幼馴染みよ」


 「……"ただの"?」


ダニエルは少し考えると、青年に笑みを向け、口を開いた。


「明日、我が家の夕食に

招待したい。

 お前の主人に伝えろ」



  えっ……!

  一体何を考えているの?


イネスは、驚きダニエルをみた。



 「わかりました。

  では、僕はもう行きます……」



 「ダニエル、なぜ!?」


 「ただの幼馴染みなんだろう?

  夫が“挨拶”するくらい、

  当然だ。」

 


嫉妬を孕んだその笑みに、イネスの胸に、静かな焦燥が走った。




――次話予告

波瀾の夕食会。

牽制し合う野心の鋭さ。

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