17話 夕食会ーー爪を隠す獣。

ダニエルが招いた夕食会。

陽が沈むころ、マルセルは屋敷の扉を叩いた。

 

上質な上衣に身を包み、控えめな香水が微かに揺れる。

その落ち着いた佇まいは、昔の“兄のような彼”ではなかった。


視線が、絡む。


言葉を交わさずとも、わかる。

その眼差しの奥にある熱。

自分を求める気配を、イネスははっきりと感じ取っていた。


胸の奥がざわめく。

 

何故、今日の夕食会で、百合のドレスを身にまとったのか。

そこには、単純にマルセルを喜ばせたい思いと、夫にたいしての、小さな復讐心が孕んでいた。

 

けれど、ダニエルには決して悟らせたくない。

二人だけの、沈黙のやりとり……。

 


銀器の触れる音ーーーー静寂を裂いた。

燭台の炎が揺らめき、緊張が食卓を包む。


イネスの前に並ぶのは、彼女の好物ばかり――。

それでも、味などわからなかった。


――ようやく会話が始まったのは、食事も中盤に差しかかったころ。



 「去年の中頃だっただろうか?

  君がカイロの“小さな”土地を

  買い取ったのは。」


 「……いえ、それより前に

  なります、伯爵。」

 「二年ほど前、

  たとえ“小さな”土地でも、

  ひと目で、たの絹糸工房の

  跡地が気に入り、

  セオドリック殿と、話を

  進めさせていただきました。」


回帰前に二人が関わりを持っていたとは、イネスは知らなかった。


これも――エンリケの導きなのだろうか。

感慨を隠し、イネスは葡萄酒の赤を静かに見つめた。


 「……葡萄酒は嫌いか?」

 

乾杯しただけで、イネスのグラスの中身はほとんど減っていない。

マルセルは、彼女の様子を気遣った。


 「あっ、嫌いというわけでは

 ないのだけど……」


マルセルが持参したのは、隣国ボルテウからの一本。

淡く透ける赤は、綺麗なレンガ色。

 

 「イニーのために、用意した。

  嫌いじゃないなら、

  飲んでみるといい。」


“イニー”と呼ぶ声に、ダニエルは眉を潜める。

――その呼び方が、妙に癇に障る。


 「実は飲んだことがないの……」


イネスは、まだ未成年のうちに嫁ぎ、祝い酒すら口にしたことがなかった。


 「イネス、まさか葡萄酒を

  飲んだことがないのか?」


不思議そうに話す、ダニエルには、悪気などない。


 「……ええ。」

 

――わたしはあなたと違って、お酒を嗜む余裕など持てなかった……。


少し睨み返すようにして、イネスは料理に視線を戻した。

ここにはマルセルもいる。

惨めな自分を悟られたくはない。


 「――なぜなんだ?」


 「……なんとなくよ」


子を授かり、産み、その後は日々の喧騒と緊張に追われるばかりだった。


マルセルは、イネスの瞳に影が落ちたことを見逃さない。

 

 「イニー、気が乗らないなら、

  無理して飲むことはない。」


ダニエルの瞳が、ゆっくりと細まった。


  ……俺の妻だ。


 「愛称か……

  君は、ずいぶん親しげに

  "わたしの妻”を呼ぶんだな。」


鼻で笑う声が、食卓の静寂を裂いた。


  嫉妬か――。

  自分は愛人を囲っておいて。

 

マルセルは、蔑む感情を微笑の裏に巧みに隠した。


 「ええ……イニーは、

  わたしにとって

  “特別な女性”です。」


鼻先で香りを楽しむように、

マルセルはダニエルの態度に動じることなく葡萄酒を口に含んだ。



 「へぇ……“特別”ね」

 「……こことは違い、

  ボルテウは温暖な気候。

  葡萄酒も旨いな……」



 「光栄にございます。」



マルセルの完璧な礼節が、どこか鼻についた。

それがイネスの幼馴染みだと思うと、抑えきれない苛立ちがこみあげる。

 

 「せっかくだ。

  君も、この葡萄酒を

  味わうといい。」

 

視線が一瞬ぶつかり、イネスは戸惑いながら口に含む。

 

 ゴクリ……ッ。


甘く、苦い。

味は複雑だった。


 「…………美味しいわ」


葡萄はそのまま食べた方が美味しい。

――それがイネスの率直な感想。

それでも顔には出さず、マルセルのために取り繕う。


無意識に下唇を噛む癖を、マルセルは見逃さず、軽く笑った。

 

  「ハハッ、“イニー”、

   口に合わないか?」


  「……あ、いえ……

   とても上品な味だわ……」


繰り返される下唇を噛む仕草に、マルセルは愛おしそうに目を細めた。

 

その笑みも、イネスの仕草も、すべてがダニエルの神経を逆撫でした。



 ――気に食わない。

 


 「……“俺の妻”だ。

  呼び方を改めろ。」


張り詰めた空気。

笑いの余韻も、ダニエルの一言で消えた。


 「……今日は、少し

  浮かれていたようです。

  かつて守りたかった少女が、

  美しく成長し、

  立派に伯爵夫人を務めあげて

  いたものですから。」


――あの頃の俺ではない。

 

マルセルは、ずっと沸き立つような怒り、そして疼きを感じていた。

 

  イニーを傷つけた。

  俺は、お前を許さない。


 「身分を忘れ、申し訳ありません。

  伯爵、そして伯爵夫人……

  お許しください。」


イネスの横顔を見つめ、マルセルは胸に手を当て、静かに頭を下げる。


 

 「葡萄酒は、やはり

  口に合わないな。」


ダニエルはグラスを置き、使用人に告げた。


 「ラムを持ってこい。」

使用人が動き出す。 

 「……グラスは三つだ。」


 「貴様、イネスを今度、

  “イニー”などと呼ぶな。

  わかったな。」

 

 「承知しました。」 


爪は隠しておく。

夫面していられるのは、

"今だけ"。 

マルセルは表情をやわらげ、食事を続けた。


 

 「……ふん」

 

  ボルテウとの取引がなければ、

  こんな男など、とっくに

  追い出しているところだ。

 

会話に口も挟めず、イネスはひたすら料理を口に運んでいた。

見えない、力と力が拮抗する音が、まるで聞こえるようだった。


自分を巡って火花を散らす二人。


魚のムニエルは、皮がパリッとして香ばしい。

けれど、味気ない。


ダニエルがマルセルを夕食に招いたのは、アリーナから聞いた“初恋”という言葉が気に障ったのだろう。

それは、エンリケによって曲げられた、偽りの所有欲。


マルセル――

過去に囚われ、可憐な少女の面影を探してここへやってきた。


皮肉な話だ。


  彼の知る、無垢なわたしは、

  もういないのに。

 


ここにいるのは――死にきれず、過去の孤独を悔やむ女。

 


  ――わたしは、ここにいる。

  でも、わたしのことを、

  ふたりは見ていない。


イネスはラムを一口含み、微かに笑った。


 「楽しく、食事を続けましょう。」

 


――

 


星が瞬くたび、夜はさらに奥へと沈んでいった。

銀の燭台の炎は消えかかり、屋敷には静かな夜が訪れていた。

マルセルを見送り、不機嫌なダニエルをなだめ、イネスが自室へ戻ることが許されたのは、日を跨ぐころだった。


 「さすがに疲れたわ……」

 

緊張の糸がぷつりと切れ、イネスはドレスも脱がぬまま、ベッドに身を投げた。

初めて口にした酒の余韻が、体の芯をじんわりと熱く満たしていく。


コンコン――。

 「……俺だ」


思わず肩が跳ねる。

ダニエル。こんな夜更けに、どうして――。

ノアの部屋へ向かうものと思っていた予想は、見事に外れた。


面倒な理由を考える気力もなく、イネスは寝たふりを選び、瞼をゆっくり閉じた。


扉が静かに開く音。

低い声が闇の中で落ちる。


 「少し……話をするだけだ。」


自然と背筋が伸び、緊張が走る。

ベッドの傍らに、ダニエルの気配が近づく。


 「駄目じゃないか、イネス……

  宝石は外してから寝ないと」


指先が耳元に触れ、慣れぬ手付きで装飾を外していく。

くすぐったさを堪え、イネスは息を潜めた。


指先は首筋をなぞり、ネックレスの留め具に触れる。

月光がカーテンの隙間から差し込み、石が淡く輝いた。

それはまるで――イネスの瞳を映す鏡のようだった。


 「……ッ……イネス……」


頬を寄せたかと思えば、ダニエルは一瞬ためらい、唇を触れさせることなく止まる。

吐息とともに、ラムの香りが肌をかすめた。


拒むことも、受け入れることもできない。

胸の奥で、もどかしさが音を立てた。

 

  

 「……愛してる」

 

鈍く響く声。

確かに甘いはずのその言葉が、胸を締めつけた。


――けれど。

ダニエルの寝室へと消えていったノアの後ろ姿が、脳裏を掠める。



 怖い……

 一人になるのは……



頬を、ひとすじの涙が伝った。

苦しく、許せない。

それでも――なぜか、欲しくなる。


わずかな心の揺れは、きっと慣れない酒のせい。

イネスはそう言い聞かせるように、まどろむまま、深い眠りに落ちていった。


レースのカーテンが、風にゆらりと揺れる。


 

 「……なぜ君は、涙を流した?」

 

ダニエルは、不安げに指の背でイネスの頬をなぞり、涙を拭った。


眠ったふりで遠ざけようとする。

その小さな嘘を、責めることはできなかった。

彼女の心に触れるのが、ただ、怖かった。


  時を遡ったことを

  今さら告げるつもりはない……。


  過去よりも、これからの

  俺を見てほしい。


 「イネス……あいつのことが

  気になるのか?」


あの男――マルセル。

親しげに目を合わせ、言葉少なく微笑む。

 

イネスの過去を探らせた結果、彼と縁談の話があったと知った。


余計な男の存在が、嫉妬を渦巻かせ、心をかき乱す。

この寝姿を、誰の目にも触れさせたくはない。

 

 「君の心が、欲しい……」


  微かな寝息さえ、

  こんなにも愛しい。

  ――でも、君をみていると、

  たまらなく苦しい。

  

 「奪われるわけにはいかない――

  君を……。」


月は雲に隠れ、部屋は闇に呑まれた。


 

イネスを巡る二人の男――マルセルとダニエル。

甘く、痛い夜の余韻。

これはまだ、序章にすぎない。


 


 ――次話予告

心揺れる夜のあと、男の野心と熱情。

黄色い百合は愛の象徴。

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