15話 繋がった一枚の布。
短い夏の、ちょうど半ば。
煩く鳴く夏の虫の声さえ、ブラットが大の虫好きだと知ってから、心地よく耳に届くようになった。
――すべてが、回帰する前とは違っていた。
「一年で、こんなにも
大きくなるものなのね」
冬に向けての衣づくり。
背丈を測ろうと握った巻き尺が、未来の温もりを教えてくれるかのようだった。
「本当にママは、
服を作れるの?」
「ええ。お父様の工房で、
見よう見まねだけど、
あなたくらいの年のときには、
自分でドレスを縫っていたわ。」
「ママ、すごいね!!」
「ふふ、そうね。
すごいでしょ?」
――ブラットの笑顔は、ただ純粋な驚きと尊敬の表れ。
「――うん、さすが、苦労した
“没落貴族の娘”だね!」
ブラットは、聞いたことをそのまま口にしただけだった。
無邪気な言葉に、悪意も嫌味も混じってはいない。
イネスは息を詰まらせる。
採寸を終えたキリアンが、慌ててブラットをたしなめた。
――ノアに違いない……!
敵対心むき出しの彼女が、大人しく、イネスに協力するはずがない。
イネスの拳は震えた。
ダニエルがノアをここに残すと決めてから、もう一週間。
「ノアには、君と子供たちの
仲を取り持ってから、
ゆっくり去るように言ってある」
そう告げられていた。
「愛している」
続くその言葉に、イネスはうんざりした。
あの日、ノアの言葉が気になったイネスは、ダニエルの寝室の近くをさりげなく見回した――
すると、胸元の開いた夜着に薄手の布を一枚羽織ったノアが、静かに扉の前に立っていた。
まるで招かれるように、彼女の姿はそのまま闇へと溶けていき、扉がそっと閉まった。
夫婦としてやり直す――
その修復の兆しは、音もなく絶たれた。
「エンリケの力も、
“真実の愛”には勝てない。」
それがイネスの出した答えだった。
それから、ダニエルが何をしようと、何を言おうと、イネスの中には分厚い壁が作られ、動じることはなくなった。
ただ、子供たちの心を取り戻す。
イネスの胸の奥は、その思いでいっぱいだった。
――利用できるものは、
利用する!
あの女さえも。
夫にとって、自分は愛される価値のない存在だと悟った今、イネスは密やかな計略を抱いていた。
「子供たちのために、
布を買いに行ってくるわ。」
マルセル兄さんに相談しよう。
きっと、手助けしてくれる――。
イネスはアリーナを連れずに、屋敷を出た。
「誰でもいいから
使用人を連れていくように。」
そうダニエルには煩く言われていたが、それがアリーナでも、そうでなくとも、彼から監視されているという事実は変わらない。
――従うつもりなんてない!
馬車は使わず、軽装で馬にのった。
山道は軽やかで、木漏れ日が降り注ぐ。湿った土の香りが、胸の奥をそっとほぐしていくようだった。
――マルセル兄さん。
わたしが突然行ったら、
びっくりするかしら……
メモ書きを大事にポケットに仕舞うと、イネスは胸を熱くして急ぎ向かった。
――
カンカンと木槌の音、布が擦れる音、職人たちの声。
騒がしい工房の中で、懐かしいマルセルの低く落ち着いた声が、ふと耳に届いた。
緩やかに揺れる茶色の髪が光に透け、柔らかい甘さを漂わせる――。
イネスは、そんなマルセルから目が離せなかった。
「お嬢さん、邪魔だよ!」
荷台がイネスをかすめた。
「おっと、危ないっ!
イニー、大丈夫か?」
慌てて身を引くイネスを見つめ、マルセルは微かに眉をひそめた。
「君っ!ちゃんと周りを
見て動かないと――」
職人は、軽くイネスに頭を下げた。
「わたしがいけないの!
ぼうっとしてたから……」
「ここは男だらけで、騒がしいだろ?
けど――ここが俺の城。
ようこそイニー
俺の小さな楽園へ!」
目を細め、唇の端だけを緩めてマルセルは照れ臭そうにはにかんだ。
造られたばかりの工房は、設備が整っておらず、まだこれからといった感じだ。
けれど、幼い頃からのマルセルの夢は、家門からの独立。
彼はその夢を叶えたようだった。
「すごい……素敵なお城ね!
でも、忙しいのに、
突然来ちゃってごめんなさい。」
尊敬と羨望の入り混じった表情を浮かべ、イネスは小さく頭を下げた。
「気にすることじゃない。
歓迎だよ!」
マルセルは軽く息を吐き、ふっと肩の力を抜く。
「行こう。案内する!」
工房の高い窓から差し込む淡い日差しが、白い壁や木製の作業台、棚のガラス瓶や金属道具に反射していた。
絹布やレース、香辛料や染料の瓶が並ぶ中、整然と道具を置いた作業台で職人たちが黙々と働く。
「ここが俺の工房。
君が来るとわかっていたから、
少し片付けておいたんだ。」
マルセルが腕を広げて案内する。
眺めているだけでも、胸がいっぱいになる。
罰部屋で何年も時間を費やした自分とは、大違いだった。
イネスの表情は重く曇る。
何かを悟ったように見据えると、マルセルは
ふと歩み寄り、工房の奥――白い壁に貼られた
一枚の布を指さした。
淡い光を受けて、白い生地に描かれた
黄色の百合が静かに浮かび上がる。
「結婚する前に、
君は、うちの取引先から
これを買っていたんだ……」
マルセルの声は穏やかだったが、その瞳の奥には懐かしさと誇りが混じっていた。
「それを知った俺は、
裁断されたその余りを
迷うことなく買い取った。」
「こうして壁に飾ってあるのは……
君との繋がりを
忘れたくなかったからだ。」
イネスの胸が小さく震えた。
あの布は、高価でとても手の届くものではなかった。
それでも、どうしても諦めきれず、船員に頼み込み――半分だけ譲ってもらったものだった。
その残りを、マルセルがこうして目の届く場所に飾っている。
「……マルセル兄さん、どうして?」
「ここへ渡った理由は、
イニー、君を
ひと目みるためだ。」
イネスの生まれたバーンズ家。
他国の安価で良質な生地が市場に流出すると、
その煽りを大きく受けた。
一時は、マルセルとの結婚の話も持ち上がっていた二人だったが、このことが両家に深い溝を生み、それが叶うことはなかった。
そして、イネスの結婚が決まると、知識と力をつけるために、マルセルは隣国へ渡ったのだった。
「遠い地から、
イニーと繋がっているこの布を、
肥やしに俺は生きてきた……。
君を救えなかった悔しさを糧に。」
深緑色の瞳は、その返答しだいで、イネスの運命を大きく変えてしまうだろう。
覚悟を孕んだその眼光は、一人の男の野心を宿していた。
「もう一度聞く――」
「君は今、幸せか?」
――次話予告
心の揺らぎを見逃さない。
君は、"俺のモノ"になる。
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