第2話 境界線の午後
「文化祭実行委員会」と書かれた紙が、教室の戸に貼られていた。
放課後の教室。担任はいない。委員長の男子が教壇の前に立ち、チョーク片を指の間で転がしている。窓の外からは、部活の掛け声とボールの音が、かすれた残響のように流れ込んできていた。
「――じゃあ、実行委員はこれでええよな。あと残ってんのは広報や。チラシ作ったり、地域の掲示板に貼りに行ったり、保護者会のときに説明したり」
黒板には、役割ごとに名前が並んでいる。
空気はどこまでも“普通”だった。笑い声があり、軽口が飛び、誰も深刻さとは無縁に見える。
委員長が、何でもない調子で言った。
「広報、誰かおらん? おらんかったら、去年やってたやつに頼むか。……金田、お前、去年やってたやんな?」
その瞬間、空気が一拍だけ固まった。
椅子が小さくきしむ音。
視線が、ほんの一瞬だけ恵一に集まり、すぐ散る。
教室の後ろで机にもたれていた恵一が、のろく手を上げかけ――途中で止めた。
「……いや、今年はええわ。別のやつでええやろ」
声はいつも通り軽い。だが、笑ってはいなかった。
沈黙が、息をひそめるように教室を包む。
「広報ってさ、人前出るやん?」
前の列の女子が、柔らかい声で言った。
「地域の人も来るし、保護者とか、PTAとかさ。ちゃんと説明できる子の方が安心ちゃう?」
別の女子がうなずきながら、言葉を足す。
「そうそう。役所の人も来るかもしれへんし。……まあ、“地元の子”の方が、何かと話しやすいよね」
誰も、きつい言葉は使っていない。罵倒も、あからさまな蔑みもない。
けれど、その「地元」という一言が、はっきりと線を引いていた。
「ほな、広報は――」
委員長が別の男子の名前を書きかけたとき、真央は手を上げていた。
「……金田くんが、一番向いてると思います」
教室の視線が、一斉にこちらに向く。
委員長は困ったように笑った。
「いや、まあ、金田は去年もやってたし、向いてるとは思うけどな。でも今年は、“違うやつ”で回した方がええかなーって。いろんな子に経験させたいやん?」
理由になっているようで、なっていない言葉だった。
誰かが小さく笑い、誰も異議を唱えない。
恵一は真央の方を見なかった。窓の外に視線を向けたまま、肩をすくめる。
「ほら、そういうこっちゃ。俺はええから」
それで話は流された。黒板に別の名前が書き込まれる。
拍手が起こり、次の議題に移る。
十秒も経たないうちに、さっきのやり取りは“なかったこと”になった。
けれど真央の胸の奥では、硬いものがひっかかったままだった。
──今のは、いったい何だったんだろう。
金胎教の世界では、線はもっと露骨だった。
信者と外部、幹部と平信徒、御子とそれ以外。
しかし今目の前で引かれた線は、誰も口にしないまま、当たり前のような顔をして教室の床にすっと敷かれていく。
それが、いちばん気味が悪かった。
**
帰り道、校門を出たところで恵一に追いついた。
「さっきの、広報のことだけど――」
「ん?」
夕方の光が、恵一の横顔を斜めに切る。
彼は相変わらず、どこか他人事のような顔で空を見上げていた。
「僕は、金田くんが一番ふさわしいと思った。去年もやってたんだろう? どうして断ったの?」
「断った、っていうかさ」
恵一はケラケラと笑い、とても“慣れた”調子で言った。
「どうせ、ああなるって分かってたから。先に自分から下りた方が、ちょっとだけマシやろ?」
「“ああなる”?」
「お前、まだ分からんか」
恵一は足を止め、真央の方をちらりと見た。
「……あいつら、別に俺のこと嫌いなわけちゃうねん。ただ、“面倒”がイヤなだけや。
在日の俺が広報やって、外でケチついたら、担任も学校も困る。PTAもうるさい。せやから、“地元の子”でええやん、ってこと」
言葉は淡々としているが、その奥に、長い時間で擦り減ったような疲れが沈んでいた。
「そんなの、おかしい」
「おかしいよ。めちゃくちゃおかしい」
恵一はあっさり認める。
「でも、“おかしい”って言うても、たぶん何も変わらん。……せやから、お前まで変に浮いてまうの、ちょっとイヤやってん」
真央は、言葉を失った。
金胎教の中で感じていた息苦しさとは、質の違う重さだった。
ここでは誰も“神”の名を使わないのに、やっぱり見えない線が人を締めつけている。
「……僕は、慣れたくない」
気づけば、そう口にしていた。
恵一は少し驚いたように目を丸くし、それから皮肉っぽく笑う。
「まあ、お前はそれでええと思うで。“御子様”が、世の中の理不尽に慣れてしもたら、話にならんやろ」
冗談めかした言い方だったが、その言葉は不思議と、真央の胸に残った。
**
数日後の土曜日。
天王寺駅から少し外れた下町の商店街を、真央はひとり歩いていた。乾物屋の匂い、揚げ物屋から漂う油の匂い、遠くで流れる演歌。
鹿児島の山の匂いとは、まるで違う熱と湿り気を帯びた雑多な空気。
その中で、聞き覚えのある声が響いた。
「陽二、そっち持て。落とすなって!」
「やだー! 重いもん!」
振り向くと、玉ねぎとキャベツの詰まったビニール袋を両手に提げた恵一がいて、その横で小さな男の子と女の子が言い争っていた。
「あれ?」
恵一が真央に気づき、少し目を丸くする。
「……神代。こんなとこで何してんねん」
「散歩。……金田くんこそ」
「買い出し。見たら分かるやろ」
恵一は苦笑し、子どもたちの頭を軽く小突いた。
「ほら、ちゃんと挨拶せえ」
女の子がじっと真央を見上げる。ぱっちりとした目に、好奇心と警戒心が半々に混ざっていた。
「……誰?」
「クラスメイト。神代真央くん」
「ふーん」
女の子は一歩近づき、小さな声で言う。
「お兄ちゃんの友だち? へえ……ほんまにおったんや」
「ちょっと待て。どういう意味やねん、それ」
恵一が笑い、真央も思わず口元が緩んだ。
「妹の麻衣と、弟の陽二。バカみたいに元気やけど、悪い子ちゃうから安心しろ」
陽二はじーっと真央の肩から足元まで眺め、それから唐突に聞いた。
「お兄ちゃんの学校の人? ケンカ強い?」
「……強くはないと思う」
「ふーん。でも背、高いから勝てそう」
その子どもじみた評価に、なぜか胸の奥が少し軽くなった。
「神代、時間ある?」と恵一が聞く。
「少しなら」
「じゃあ、手伝ってくれ。この荷物、マジで重いねん」
半分冗談の声だったが、真央は自然に頷いていた。
**
商店街の裏手。少し古びた三階建てのアパートの前で立ち止まる。
壁のペンキはところどころ剥がれ、郵便受けには色褪せたチラシが差し込まれている。
階段を上がると、廊下には他の部屋から漂ってきた夕飯の匂いが混じり合っていた。煮物、焼き魚、どこかで炒められているニンニクと唐辛子。
「うち、狭いで」
恵一が念を押す。
「……うちの山の社よりは広いと思う」
「その比較基準、よう分からんわ」
部屋の前の表札には、手書きの文字で〈錦〉とあった。
真央は、その漢字を見て一瞬足を止める。
――読み方は違うが、金と布。どこか、金胎教で見慣れた意匠と響き合う。
ガラガラ、と引き戸が開いた。
「ただいまー」
「ただいま」
「ただいまーっ!」
狭い玄関に靴がいくつも並び、奥には小さな台所と、ちゃぶ台のある六畳間がひとつ。
壁にはパチンコ屋のカレンダーと、韓国の風景写真の切り抜き。部屋は決して汚くはないが、生活の手触りがむき出しになっている。
台所では、エプロン姿の女性が鍋をかき混ぜていた。振り返った顔は恵一によく似ているが、目の奥にどこか険しさが宿っていた。
「……あんた、連れてきたの?」
少し濁った大阪弁に、異国のアクセントが混じる。
恵一が慌てて言う。
「クラスメイトや。たまたま会うてん。荷物持つの手伝ってもろたから、その……」
「ふん」
母親は真央を一瞥し、ほんの少しだけ会釈した。
「こんばんは」と真央が頭を下げると、彼女はたどたどしい日本語で返した。
「こんばんは。……ごめんね、うち、きれいじゃないね。ごはん、もうすぐ」
その謝り方に、長年の“外に対する構え”が滲んでいた。
ちゃぶ台では、新聞を広げた男が座っていた。顔を上げはするが、挨拶は返さない。ただ短く恵一を見て、それからまた新聞に目を落とした。
「父ちゃん、クラスメイトや」
「……ふん」
それだけのやり取り。
だが、その「ふん」の中に、言葉にならない警戒と疲労が凝縮されているように感じられた。
麻衣と陽二は、そんな大人たちの空気など気にも留めない。
「お兄ちゃんの友だち、ここ座って!」
「これ、僕が切ったキムチやで!」
ちゃぶ台の周りは狭く、足を伸ばせばすぐ誰かの膝に当たる。
真央は、押し込まれるような狭さの中で座った。
「神代くん、やったっけ?」
母親が、ぎこちない発音でたずねる。
「……はい。神代真央です」
「マオくん。いい名前」
そう言って、彼女は皿にキムチと肉野菜炒めを盛ってくれた。手元の動きは慣れているのに、言葉にはどこか遠慮が混ざっている。
味噌汁、キムチ、少し辛いスープ。
見慣れたようでいて、どこか違う匂いが食卓に立ちのぼる。
陽二が唐突に聞いた。
「マオくんち、金持ち?」
「……そうでもないと思う」
「でっかい建物に住んでるんやろ? 神さまのとこ」
麻衣が、弟の言葉を口で制した。
「陽二、言うたらあかん。……でもちょっと聞きたい」
真央は、言葉を選びながら答える。
「……山の中の社だから、家とは違う。でも、外の人は“特別な場所”だと思ってる」
「ここは“特別ちゃう場所”やから」
恵一が茶碗を持ったまま、ぼそっと言った。
「“普通”でもないけどな」
新聞のページが一枚めくられる音がした。その音が、やけに大きく響いた。
ふと真央は気づく。
――この家もまた、「外」と「内」の境界線の上に建っているのだと。
教団の山の上には、信仰で引かれた線がある。
このアパートの中には、国籍と血で引かれた線がある。
どちらの線も、簡単には越えられない。
食事が終わる頃、母親が小さく言った。
「……マオくん。また来てやって。恵一、友だち、少ないから」
「母さん!」
恵一が顔を赤くする。
真央は、少しだけ笑った。
「……僕も、友だちは多くないので」
そのやり取りに、麻衣と陽二が声を上げて笑う。
狭い六畳間に、ささやかな笑い声が満ちた。
外からは、線路を走る電車の音が聞こえる。その向こう側に、また別の“世界”が続いているような気がした。
──世の中には、いくつの境界線があるのだろう。
山を降りて、ひとつ越えたと思っていた線の先に、まだいくつも見えない線が重なっている。
真央は、ちゃぶ台越しに恵一の横顔を見た。
彼は当たり前のような顔で笑っている。でもその笑いは、山の上で見た信者たちの笑いと同じくらい、不安定なものに見えた。
この夜の光景は、やがて真央の中で
「理想の宗教とは何か」を問い始める、最初の種になる。
ただそのときの彼は、まだそれに気づいていなかった。
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