第3話 消えない傷と、小さな光

 翌週の月曜日。昼休みのチャイムが鳴った直後、廊下で恵一に呼び止められた。


「この前は、ありがとな」


 短く、少しだけ照れた声だった。


「麻衣も陽二も……あんたのこと、やけに気に入っとるわ。楽しかったみたいや」


「こちらこそ。僕は、家族で囲んで食事をすることがないから。とても愉しかった。何より、恵一のお母さんが作ってくれた、あの辛いスープ、とても美味しかったよ」


「そう言ってくれたら、オカンも喜ぶわ」


 恵一は嬉しそうに笑った。そのまま歩き出し、校舎裏の自販機まで来たところで、ぽつりと続ける。


「今度の日曜、“生野民族祭”ってのがあってな。毎年、小さいステージで子どもが歌ったり踊ったりすんねんけど……麻衣が、今年はチマチョゴリ着て歌うんや」


「チマチョゴリ?」


「民族衣装や。日本の着物みたいなもんやけど、せっかくの民族祭やしな」


「麻衣ちゃん……去年は出なかったの?」


「いろいろ言われるのもあって、怖がってた。けど今年は、どうしても出たいって。……だから、お前にも見に来てほしいってさ」


 真央は一瞬だけ驚き、それから静かに笑った。


「僕でよければ、行くよ」


 言葉にして初めて、自分の声が“誰かのため”に動いたのだと気づいた。


「……ありがとうな」


 恵一は俯いたまま言った。照れているのか、感情をごまかしているのか、どちらとも言えない。その曖昧さがどこか人間らしくて、真央には少し羨ましく映った。


**


 その放課後、帰り支度をしていると、教室の前で宮本志桜里が声をかけた。


「神代くん、少しいいかな?」


 図書準備室の扉が閉まると、外の喧噪が嘘のように静まり返った。


「最近、あなた……表情が変わったわ」


 宮本は紅茶を淹れながら、柔らかく微笑んだ。


「良くも悪くも?」


「もちろん、良いほうよ。前は、“この教室の温度”が分かっていなかった。でも今は、ちゃんと呼吸してる」


 真央は黙っていたが、その言葉は胸にすっと沁みた。


「……先生。大阪って、思っていたよりも複雑です」


「どこでもそうよ。人が集まる場所は、どこかが歪む。あなたの故郷の教団だって、そうでしょう?」


 その言葉に、真央はわずかに息を止めた。


 金胎教。巫女教祖だった母・弥生。その影。

 信吉の重圧。美沙の警戒。弥生派の熱狂。


「あなたは“象徴”として育てられた。象徴はね、崇められるほど孤独になるの。誰もあなたを“人間”として見なくなる」


「……分かります」


「それでも、あなた自身がどう感じるかを捨てちゃダメ。恵一くんや、その家族と触れていると……“あなた自身の感情”が育つはずだから」


 宮本の言葉は鋭く、同時にやわらかかった。真央は気づかないうちに、ほっと息を吐いていた。


「先生……僕、変われますか?」


「変わるんじゃないわ。あなたは、ただ本来のあなたに戻るだけよ」


 そう言って、宮本は一冊の本を差し出した。


『人間の条件(ハンナ・アーレント)』


「読んでみて。世界の苦しみを“理解したふり”じゃなく、“見つめる力”を育ててくれる本よ」


 真央は神妙に頷いた。この日、自分の中でまたひとつ何かが芽吹いたのを感じていた。


**


 寮へ戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。差出人は──父・神代信吉。鹿児島の本山からの便りだった。


 封を切ると、信吉の手書きの文字が目に飛び込んできた。思っていたより、わずかに震えて見えた。


 ──真央へ。


 便りを出すのは久しぶりになる。元気でいることを願っている。


 金胎大学および大阪本部の拡張について、弥生派との議論は続いているが、いまだ安定にはほど遠い。


 お前が鹿児島を離れてから、教団は“真央の不在”をどう扱うべきかで揺れている。


 弥生の御影は日に日に神格化され、それに伴い、お前への期待も大きく、そして重くなっている。


 だが私は──“教祖”ではなく、“真央”としてのお前がどう生きるかを優先してほしい。


 大阪では、できるだけ普通の学生として過ごしなさい。呼吸をし、人を知り、人の痛みを知ってほしい。


 それが、いずれお前を守る。


               父・信吉


 読み終えると、真央は手紙をそっと机に置いた。胸の奥に、温かさと重さが同時に広がっていく。


 ──呼吸をし、人を知り、人の痛みを知ってほしい。


 まるで、今日一日の出来事を見透かしたような言葉だった。


**


 翌朝、校門の前で恵一が待っていた。


「昨日の話やけどな……麻衣、めっちゃ張り切ってるわ。『真央兄ちゃん来るん?』って」


「兄ちゃん……?」


 その一言が、胸の奥の、今まで誰も触れたことのない場所にそっと落ちた。


「気にすんな。あいつら、新しいもん全部“兄ちゃん”言うだけや」


 恵一が照れ隠しみたいに笑う。真央もつられて微笑んだ。その瞬間、胸の内側で、信吉の手紙の一文がふっと浮かぶ。


 ──呼吸をし、人を知り、人の痛みを知ること。


 それは宗教の言葉ではなく、父が息子に送った、ただの“人間としての願い”だった。

 真央はその願いを、静かに胸にしまった。


 この日から、彼の人生の軸はわずかに傾き始める。

 その微かな傾きは、やがて青年部の誕生へ──そして、金胎教全体を揺さぶる「第三の波」へとつながっていくことになる。

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