第2部 沈黙の青年王

第1話 春、外の世界へ

 昭和五十年の春。


 大阪府立桜洲高校の門をくぐった瞬間、真央は胸の奥がきゅっと縮むのを覚えた。金胎教の校舎とは空気が違う。制服は地味で、校庭には雑多な声が飛び交い、どこからか笑い声が混じってくる。


 ──息がしやすい。


 それが最初の実感だった。


 教団では、真央は“御子様”として、誰からも過剰に意味を与えられた。どれだけ息苦しくても、それが世界の全部だったから疑うことさえできなかった。


 だがここでは、誰も彼を知らない。見つめもしない。ただの転校生として受け入れる。その無関心が、どこか温かかった。


 担任の宮本志桜里が黒板に名前を書く。


「今日から新しい仲間が増えます。神代真央くん。鹿児島から来ました」


 教室はわずかにざわめき、しかしすぐに静かになった。普通の拍手。普通のまなざし。


「……神代真央です。よろしくお願いします」


 その一言で終わった。誰も真央の背景を詮索しようとしない。

 ──僕はここで、“ただの人”になれるのかもしれない。


**


 翌日の昼休み。

 中庭の大きな楠の木の下で、真央はひとり弁当を広げた。


 教団では、食事でさえ儀式だった。真央の箸の動きにさえ意味を見つけ、“吉兆”だの“御意志”だの語り立てる者がいた。


 だから、ひとりで食べる昼休みは、驚くほど静かで、軽かった。


 そこへ、ひとりの男子が近づいてきた。気を遣うように距離を空けて立ち止まる。


「……ここ、座っていい?」


「うん」


 男子は数歩分の間を残して腰を下ろした。その“曖昧な距離”が、真央には心地よかった。支配でも崇拝でもない、ただの距離。


「なあ、神代……くん。聞いていい?」


「何?」


「お前んとこの教団って……怖いのか?」


 真央は少し考えてから、静かに言った。


「……僕には、怖かったよ」


「やっぱりか」


 男子は空を見上げた。薄雲がゆっくり流れている。


「俺んち、ちょっと複雑でさ。……まあ、逃げられない空気っていうか、そういうのだけは分かるんだよ」


 その言葉が、不意に真央の胸の奥の鍵を外した。


「君の名前、聞いていい?」


「ああ、言ってなかったな。俺は金田恵一。ただの一般人。宗教とも金とも縁はねえ」


 真央は自然と笑った。


「……ありがとう。話してくれて」


 恵一が驚いたように眉を上げた。


「お前、笑うんだな」


「笑うよ」


「いや……もっとこう、神殿の奥で無表情で光ってるタイプかと」


「そんなわけないよ」


「だよな。……なんか安心したわ」


 短いやり取りだったが、真央の胸には温かいものが広がっていた。

 生まれて初めて触れた、“対等”な関係。


**


 放課後、宮本志桜里に呼ばれて図書準備室へ向かった。


「神代くん。あなたに見せたい本があるの」


 宮本は一冊の本を机に置いた。『無知の知──ソクラテス』


「知ってる?」


「……名前だけです」


「あなたは、考える前に“答え”を与えられて育ってきたはず。だから大切なのは、“疑う力”よ。あなた自身の言葉で世界を見直すこと」


 宮本の声は優しく、それでいてどこか痛みを含んでいた。


「あなたは長い間、“象徴”として扱われてきた。でもここでは、人として考えていい。考えなきゃいけないの」


 真央は小さく息を呑んだ。


「……僕が考えても、いいんですか?」


「いいの。あなたの人生なんだから」


 夕焼けの廊下をひとり歩きながら、真央は胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。

 ──僕はここで変われるのかもしれない。


 校庭から聞こえる雑多な音が、生まれて初めて“生きた音”に聴こえた。その小さな変化が、のちに金胎教を揺らす第二の波になることを、まだ誰も知らなかった。

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