6 金融恐慌のコード(パニック・アルゴリズム)
レイの隠れ家である時計職人のアトリエは、今や王国の未来を決する経済戦略会議室となっていた。窓の外の喧騒とは裏腹に、レイとヴェラ・ノース、そしてクロエの間には張り詰めた緊張が広がっていた。
レイは空中投影された王国最古の金融ギルドが発行する「信用状(クレジット・ノート)」の複雑な流通過程図を指し示した。
「ダルク公爵の狙いは王都で流通する金貨の絶対量ではなく、その金貨と等価として扱われる信用そのものの破壊です。彼のターゲットは『ギルド信用状』の脆弱性でしょう」
〈解析:ギルドの信用状の担保率は実際の金貨準備高に対して過剰に高く設定されている。平時は問題ないが、僅かな「信用の不安(ディスインフォメーション)」が流布されただけで、人々は金貨との交換を要求し、ギルドの連鎖的な破綻を引き起こす。このシステムは本質的に信頼という名の脆弱性に依存している〉
レイは信用状の流通過程図に、赤い警告マーカーを数カ所に追加した。
「公爵は既にこの『パニック・アルゴリズム』の起動準備に入っています。所有する資産を金貨に換金し、信用状の信用不安を煽るための『偽情報(フェイク・ニュース)』を流布させるでしょう。人々が一斉にギルドに殺到するまで、猶予はおよそ48時間と予測します」
ヴェラは冷たい目で図を見つめた。
「公爵の真の目的は経済を混乱させ、王室の威信を失墜させ、その混乱の中で『救世主』として絶対的な権力を握ることよね?」
「その通りです。我々が公爵の『パニック・アルゴリズム』に対抗できるのは物理的な金貨の量ではありません。それを超える『絶対的な信用』です」
レイの作戦は公爵のアルゴリズムが依存するギルドの信用という変数を、王室の絶対的な権威という、より強固な変数で瞬時に置き換えることだった。
《信用担保作戦:ロイヤル・クレジット構築》
「ヴェラ殿。『影の眼』のネットワークを動かし、王室の金貨準備高に関する誤情報を公爵派に流してください。公爵の目をギルドの物理的な破綻に集中させるためです」
「分かったわ。彼が金貨の準備高の少なさに油断するよう仕向ける」
「そして、クロエ」
レイは小さな少女に目を向けた。
「君の任務は王都の『市場の心理状態(集団不安)』をリアルタイムで監視することだ。不安が臨界点に達したときが、我々が行動を起こす瞬間になる」
「人々のざわめき、商人の声、金属が擦れる音。すべてを解析し不安の波紋が広がる速度を報告します!」
作戦は始まった。
まずダルク公爵が仕掛けた。翌日、王都の商業地区には「金融ギルドの裏側には金がない」や「王室は秘密裏にギルドから資産を引き上げている」というデマが囁きとして広がり始めた。
レイの予測通りギルドの信用状を持つ庶民や中小商人の間で不安の波紋が広がる。クロエがアトリエの屋上から集めた音響情報をレイに伝えた。
〈解析:市場の心理状態。不安ベクトルは過去の経済危機の記録パターンと完全に一致。ギルド窓口への群集密度が$80¥%$を超えた時点で、パニック・アルゴリズムが起動し、金融恐慌が不可逆なものとなる)
「残り10時間」
レイはヴェラが事前に用意した素材「王室の魔術師団が作成した、絶対に偽造不可能な魔術刻印紙』を手に取った。公爵の恐慌アルゴリズムを破壊するには、即時的かつ絶対的な信用の介入が必要になる。新しい通貨システム、すなわち「王室保証信用証(ロイヤル・クレジット)」を導入しなければならない。
このロイヤル・クレジットの設計は、レイの【異能解析】によって行われた。信用状の代わりに王室の紋章とエリアル王女の魔力が刻印されたこの証券は、王国の金貨準備高ではなく、王女の即位権と王国の絶対的な存続という、国家の根源的な権威そのものを担保としていた。
作戦決行の瞬間。
「群集密度、$80%$に達しました。パニック・アルゴリズムが起動します!」
レイはヴェラと共に玉座の間に向かった。
エリアル王女は王室の伝統的な儀装束を纏い、威厳に満ちた表情で、王都の中心である神聖の広場を見下ろすバルコニーに立った。公爵が祭事に使用した「音響拡散魔術」の魔導器は、ヴェラの協力により既に王室の手に回収されていた。
王女の前にレイが設計した「ロイヤル・クレジット」の見本が置かれる。エリアル王女は王都全土に響き渡る声で力強く宣言した。
「国民よ! 今、我が王国を揺るがそうとしているのは金貨の不足ではない! 信用の崩壊という、根拠なき恐怖である!」
彼女はロイヤル・クレジットを掲げた。
「この度、我が王室は『王室保証信用証(ロイヤル・クレジット)』を発行する! この信用証はギルドの保証ではない! 王国建国の誓約とエリアル王女、この私の命と王権をもって、その価値を永久に担保する!」
公爵のデマによって不安に陥っていた庶民の心に、王女の声は絶対的な安心感として浸透した。レイはバルコニーの影からヴェラに指示を出す。
「ヴェラ殿。この瞬間『王室保証』の魔術刻印が施された信用証を、公爵派の貴族が保有する資産を除く、すべての金融ギルドの金庫に大量に送り込んでください」
ヴェラの「影の眼」の部隊は迅速に行動した。大量のロイヤル・クレジットが王都の主要なギルドの金庫に秘密裏に補充されていく。一部の庶民がギルドの窓口に殺到し「金貨と交換しろ」と叫んだ頃――
「お客様。当ギルドは金貨と交換できますが、それよりも遥かに確実な『王室保証信用証』での払い出しも可能です。この信用証は王女様の権威が担保しています」
ギルドの窓口担当者たちは冷静に微笑む。人々は王室の紋章が刻まれた、偽造不可能な信用証を見て驚愕する。
〈解析:庶民の心理状態、パニックから信頼の回復へと瞬時に転換。ロイヤル・クレジットの導入により、ギルドの信用状の脆弱性が、王室の絶対的な信頼によって完全に置き換えられた。公爵のパニック・アルゴリズムは実行と同時に破綻した〉
作戦は成功した。公爵の恐慌計画は信用という概念そのものを逆手に取られたことで水泡に帰したのである。ダルク公爵は自身の屋敷で、この異常な事態の報告を受けていた。
「馬鹿な! なぜだ? ギルドの信用状は確実に崩壊するはずだった! 王室にあれほどの金貨準備高があったというのか?」
公爵は自身の経済知識と、情報網から得た王室の財政状況のデータが、すべて無意味になったことに戦慄した。彼が恐れていた物理的な破綻は起こらなかった。入手したデータが扱っていなかった王権の権威という、定性的な要素が、突如として絶対的な担保という定量的要素に化けたのだ。
レイはヴェラの隠れ家でロイヤル・クレジットが市場に定着したことを確認していた。
「ダルク公爵は最初の『情報戦』、次の『物理的な排除(暗殺)』、そして『経済戦』のすべてにおいて敗北を喫した」
ヴェラはグラスを傾けながらレイを見つめた。
「彼の権力への執着はもう限界に達しているんじゃないかしら?」
「どうでしょうね」
レイの瞳がデータ処理の光を帯びる。
〈解析:ダルク公爵の行動予測アルゴリズム再実行。公的な手段のすべてが破壊された。残された手段は――ただ一つ。最も原始的で最も個人的な「執着」に基づく行動だ〉
「公爵が最後に頼るのは『王国の歴史の根源』です。彼は王位継承の正当性を証明するために、王室の『秘匿された起源』に手を出すでしょう」
レイはヴェラから預かっていた王室禁書庫の地図に新たなマーカーを置く。
「王室の最も古い秘密。それは建国の誓約が刻まれた王都の地下深くに眠る『始祖の祭壇』です。公爵はそこで王国の歴史を『最後の改竄』にかける。もし彼がそこで成功すれば、王位継承戦どころか、王国そのものの存在意義が崩壊します」
ヴェラは緊張でグラスを握り締めた。
「始祖の祭壇……ね。あそこは王族と極一部の『影の眼』しか立ち入ることのできない王国の最も神聖で危険な場所よ」
「ええ。私たちの最後の戦場は『王国の深層心理(プロファイル)の根源』です。そして公爵の護衛には彼が最も信頼する『未知の暗殺者』がつくでしょう。準備を」
レイはクロエと目を合わせた。
「我々が『歴史の改竄』という最も根源的な情報戦に終止符を打つ」
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