2 少女と聴覚(アブソリュート・リスニング)

 王都の旧市街地外れにあるレイの隠れ家。

 昼間は誰も近づかない、埃っぽい裏路地の一角にある、廃墟同然の時計職人のアトリエ。内部はレイが最低限の情報処理を行うための簡素な空間に変わっていた。


 レイは一枚の羊皮紙に刻印されたダルク公爵の紋章を眺めていた。公爵がバートラム男爵を罷免した際に発表した、表向きは寛大に見せかけた声明文だ。


〈解析:声明文の文体パターンから、公爵の筆頭秘書官であるヴィルヘルムによる起草と推定。その内容からは怒りよりもむしろ冷徹な計算が検出される。彼の計算ではバートラム男爵の失敗は許容範囲内の軽微な損失であり、レイの存在は今のところ偶発的な不運、または高度に訓練されたエージェントによる一時的な妨害と認識されていた〉


 王女の周辺に新しい情報参謀がいると、ダルク公爵はまだ確信していないだろう。彼の計画の規模から見て、あの程度の妨害で立ち止まるはずはない。次の手はより大規模で、より巧妙になるだろう。


「情報戦は『敵の認識の盲点』を突くことが鍵だ」


 レイは独りごちた。

 公爵にとっての盲点とは「辺境貴族私兵の子」に過ぎないレイの存在。それと王都の貴族たちが軽視する「庶民の声」だ。そして「歴史の裏側」だろう。


 情報源の確保が急務だった。エリアル王女の別邸は、ダルク公爵派の「影の眼」による監視下にあり、レイ自身が公然と情報を集めるのは危険過ぎる。彼は「嗅覚」に優れた、非公然の情報収集ルートを必要としていた。


 レイはアトリエ周辺の音源データを収集していた。


〈解析:王都の音源ファイル。環境騒音、人の会話、馬車の往来。その中で、この数日間「特定の周波数帯のノイズ」が検出されている。このノイズは人間の聴覚の限界を超えた高周波だが、単なる機械的なノイズではない。感情の反射を伴う、複雑な生体反応だ〉


 レイは【異能解析】を使い、音源データを視覚化した。例えようのない違和感。それは王都の喧騒の中に不規則な波紋として存在していた。


「これは音の過剰な知覚による、神経系の異常な情報処理パターンだ」


 レイは直感した。おそらくこのノイズの発生源は、アトリエの近くにいる、聴覚が異常に発達した人間だ。さらにノイズが常に痛みと混乱の感情ベクトルを伴っていることから、それらを制御できていない子供であると推定した。


 夜の帳が降りた頃、レイは旧市街地の路地裏へと向かった。能力【異能解析】が示すノイズの発生源は、ゴミの山に身を寄せている、汚れた布を纏った十歳くらいの少女だった。


「うるさい……うるさい……うるさい」


 両手で耳を強く塞ぎ、時折、微かな悲鳴を漏らしている。少女の周りの世界は、彼女にとって地獄だった。遠くで囁かれる貴族の陰口、地下で蠢くネズミの足音、隣家の夫婦喧嘩の音、そして王都の喧騒。すべてが彼女の脳に針を刺すように突き刺さっている。


「クロエ、だね」


 レイが名前を呼ぶと少女は弾かれたように顔を上げた。表情は恐怖と驚きに満ちている。


「どうして……私の名前を?」

「君の情報を解析した」


 レイは嘘を吐かない。だが、真実のすべてを語る必要もない。


「君の聴覚は――この王都のすべての音を拾っている。貴族たちの秘密の会話も、壁の向こうの陰謀の囁きも、遠く離れた場所で交わされる暗号も。君の能力は【絶対聴覚(アブソリュート・リスニング)】だ。しかしその制御が上手くできず、君の脳は、この世界の情報量に押し潰されかけている」


 少女クロエはレイの言葉に身を震わせた。ほんの一瞬で秘密を言い当てた人間に出会ったのは初めてだったからだ。


「やめて……もう聞きたくない」

「聞かなくて済む方法がある。君の能力を『ノイズキャンセリング』する方法だ」


 クロエは半信半疑の目でレイを見た。


「君の聴覚は外部の音を『情報』として処理している。その情報を脳が勝手に『重要度』で選別するから、能力を制御できずにパニックに陥るんだ」


 レイは少女の頭の中で渦巻いている音のデータフローを解析し「構造」を理解した。


「私が教えるのは『音をただの振動データとして捉える訓練』だ。そして君自身が意識的に『必要な情報』だけをフィルタリングする『心理的な壁』の構築方法だ」


 それは前世でレイが身につけた「情報過多の環境下でターゲットの声だけを抽出する」という究極の集中力訓練の応用だった。異世界の能力に前世のスパイ技術を移植する。チート能力を隠しながら、チート能力を活かす、レイの真骨頂だった。


「私に従えば君は苦しみから解放される。その代わり君の聴覚は私の情報収集の『耳』になってもらう」

「あなた……誰なの?」

「私のコードネームは【ファントム】。王国の深層心理を読み解く影の情報参謀だ」


 クロエは迷った。しかし長年苦しんできた音の暴力から解放されるという誘惑には抗えない。


「わかりました。助けてください」


 その日からレイはクロエに対する「情報処理訓練」を開始した。内容は物理的なものではなく、すべて心理的な誘導と集中力の鍛錬だった。


「クロエ」

「はい」

「今君が聞いているのは隣の路地裏で交わされている男二人の会話だ。音として聞いてはいけない。それはただの空気の振動だ」

「振動?」

「ああ。そしてその振動の中に私が設定した波長がある。そのパターンだけに意識を集中しろ。ほかの振動を意識的にノイズとして処理するんだ」


 クロエの脳にあるフィルタリング機能の閾値を調整するため、レイは細かな心理的指示を的確に与え続けた。少女の神経回路がどのように音の情報を処理し、どの部分でパニックを引き起こしているかを詳細に把握していたため、訓練は驚くほどの速さで効果を発揮した。


 二週間後。


 クロエは耳を塞がなくなっていた。瞳に以前のような混乱の色はなく、代わりに鋭い集中力が宿っている。王都の喧騒をラジオのボリュームを操るように、自在にコントロールできるようになっていた。


「王女の別邸から南に三ブロック離れた場所の、公爵派の貴族の館で密談が行われています」


 目を閉じたままクロエは遠くの情報を正確に捉えた。


「会話の内容は? パターンを読み取れ」

「はい。キーワードは『祭事・古文書・三日後の満月』……あとは『ヴェラ・ノースの動きを封じる』ですね」


 レイの顔色が変わる。ダルク公爵は予想以上に深いところを狙ってきていた。


〈解析:キーワード『祭事・古文書・満月』。これは単なる政治的謀略ではない。王国の信仰心、歴史的権威を揺るがす行為だ。そして『ヴェラ・ノースの動きを封じる』――ダルク公爵は王室直属の諜報機関『影の眼』の動きを警戒している。私が王女の参謀になったことを間接的に察知した証拠だ〉


 ダルク公爵の次なる一手は、政治や経済といった目に見える権力ではなく、国民の心の支柱である精神的な権威の破壊だった。レイは【異能解析】を最大限に起動し、王国の歴史、神話、そして王族が行う祭事の構造に関するすべての情報を、過去の記憶アーカイブから引き出した。


〈解析:アステラ王国の建国神話には「暗黒」と呼ばれる時代があり、当時の王族は「禁断の古代魔法」を封印したとされる。つまり祭事とは封印を定期的に確認し、王族の神聖性を再認識させるためのものだ。満月の夜に行われるのは、魔力の潮が最も高まる時。公爵の狙いは王族の神聖性の破壊〉


 ダルク公爵は祭事の場を利用して「王族が国民を欺き禁断の魔法を密かに利用している」という偽りの情報を流すつもりなのだ。この謀略が成功すれば、エリアル王女の王位継承の根拠そのものが崩壊する。貴族院での支持率など無意味になるほどの、国民レベルでの信仰の崩壊を引き起こす。


「クロエ、君は最高の『耳』だ。ありがとう」


 レイは静かに立ち上がった。


「ダルク公爵の次なる戦場は王国の歴史と信仰だ。狙いは国民の深層心理を操作し、王国の根幹を腐らせることだろう。しかしその手法が偽りの歴史に基づくものである限り私には勝てないさ」


 レイはアトリエの壁に掛けられた古めかしい王国の紋章に目をやった。


「歴史というものは『誰が書いたか』によって真実が歪む。今回の情報戦における最も強力な武器は、真実を装った偽の歴史にほかならない。さらに突き詰めるならば『偽りの歴史を打ち砕く正しい歴史の断片』だ」


 レイはクロエに次の指示を出した。

「クロエ。君の【絶対聴覚】を使って、王都の『図書館の静寂』に潜んでいる『古い羊皮紙が擦れる音』、そして『誰にも読まれずに放置されている古文書のページが風に揺れる音』をすべて抽出してくれ。その音のパターンから『真実の断片』の保管場所を解析する」


 クロエは深く頷いた。瞳には過去の恐怖はない。代わりに新たな使命を与えられた情報参謀の、静かな決意が宿っていた。


 王国の深層心理を読み解くレイの戦いは、ついに歴史と信仰という最も危険な領域に突入した。

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