第一章 影の誕生(ファントム・コード)
王都の別邸の一室。
豪華な装飾が施されたその部屋は、まるで美しい檻のようだった。部屋の中心に置かれた重厚な机の向かい側で、レイは静かにエリアル第三王女からの言葉を待っていた。
「私の情報参謀、ファントム。あなたが王都に来てからまだ一週間も経っていないというのに、ギルバート・ダルク公爵の経済操作の計画を寸断し決定的な証拠まで掴んでみせた」
エリアル王女は背筋を伸ばし威厳を保ちながらも、その瞳には抑制された興奮の色を浮かべていた。
「この件でダルク公爵は少なくとも数百万ゴールドの資金調達に失敗し、貴族院での権威を僅かばかりだけど傷つけたわ。あなたの分析、ただの才能では済まされない」
「恐縮です、殿下」
レイは淡々と応じる。彼の頭の中では前世の軍事作戦会議室さながらに、情報の整理と分析が続いていた。
〈解析:エリアル王女の私に対する信頼度は、この一週間で初期の期待値から約30%上昇。ただし道具としての評価に留まっており、決定的な信頼は置かれていない。彼女が私を警戒する確率は50%。この警戒を『有能さ』に対する期待へと変える必要がある〉
レイがこの世界で手に入れた能力【異能解析】は、世界の理を数式化するだけでなく、人間の複雑な心理構造、行動予測、感情の揺らぎさえも、膨大なデータとして処理することを可能にした。しかしレイはその力を、まるで燃費の悪いエンジンを低速で運転するように、極限まで制限して運用していた。
「私の最大の武器は、魔法や剣術ではない。情報と心理。そしてこの世界で得た『解析』能力は、その二つを補強する最高のツールだ」
レイにとってこの異世界での王位継承戦は、舞台こそ変われど、冷戦時代に行ってきた「情報戦争」そのものだった。
エリアル王女は、机の上に広げられた王都の地図に視線を移した。地図には保守派であるダルク公爵の勢力圏と、王女の改革派の支持層が色分けされて示されている。保守派の勢力圏は王都の商業地区と軍事拠点に集中し強固だった。
「ダルク公爵は今回の経済的打撃で一時的に沈黙するかもしれない。しかし彼は確実に次の手を打ってくるわ。あなたの分析では、次はなにを狙ってくるの?」
レイは地図上の王都北東に位置する広大な旧市街地再開発地区に指を置いた。
「殿下、ダルク公爵の次なる標的は王国の情報統制です」
「情報統制?」
王女が訝しむ。
「公爵の真の目的は王位継承の権利そのものではありません。王位を継承することで得られる『国家の絶対的なコントロール権』です。そのために必要なのは『世論』を完全に掌握することにほかなりません」
レイは解説を続けた。
「旧市街地再開発地区。ここは王都で最も人口密度が高く、一般庶民が多く暮らす場所です。彼らが最も望むのは、安全で安定した生活。ダルク公爵は、この欲求に付け込みます」
〈解析:ダルク公爵のこれまでの行動パターンから、彼は「直接的な武力衝突」を避けている。彼が最も得意とするのは「大衆の不満を巧みに煽り、それを政治的圧力に転化する」という、古典的な情報戦術。ターゲットの不安の根源は「治安」と「生活苦」の二点〉
「具体的には公爵派は『旧市街地の治安維持と生活インフラの改善』という名目のもと、大規模な公共事業計画を貴族院に提出するでしょう」
エリアル王女は顔を曇らせた。
「それは良いことではないの? もしそれが本当に庶民のためになるなら――」
「表向きは、そう見えます」
レイは断言した。
「しかしその公共事業の真の狙いは二つ。一つは王室管轄の諜報機関への予算介入。もう一つは情報伝達インフラの私物化です」
レイは地図の隅、通信塔が立っている場所を指差した。
「公爵派は再開発に際して『最新の伝達魔導具ネットワーク』を導入することを提案するでしょう。このネットワークが一度公爵派の手に渡れば、王都の情報流通は概ね彼らに握られます。彼らにとって不都合な情報はすべて検閲され、都合の良い情報だけが『真実』として庶民の間に流通する。これは近代国家における『絶対的な思想統制』にほかなりません」
エリアル王女は、息を呑み、静かに身を震わせた。彼女が考えていたのは、貴族院での議席争いや、領地の切り崩しといった目に見える権力闘争だけだった。しかしレイの解析は、遥か深層にある「社会構造の支配」という、ダルク公爵の真の野望を暴き出した。
「怖ろしいわ。もしそんなことになれば、王国の未来はダルク公爵の掌中に……」
「その通りです。だからこそ、殿下。私たちは彼の計画が議案として貴族院に提出される前に、存在しないものにしなくてはなりません」
「存在しないものに? どうやって?」
エリアル王女が尋ねる。彼女の瞳はレイの次の一言を待つ探求心と、わずかながら畏怖の念を帯びていた。
「情報戦で――です。ダルク公爵の完璧な計画の裏をかきましょう」
レイの唇に微かな笑みが浮かんだ。それは獲物を追い詰めるスパイの冷徹な笑みだった。
王都に来てから数日で見つけた、自身の活動拠点となる場所へレイは向かった。旧市街地の外れにある、小さな時計職人のアトリエの裏手。人通りが少なく、表向きは朽ちかけた物置にしか見えない場所だった。
〈解析:この場所の立地条件は、隠密活動に適している。人々の視線は騒がしい大通りに集中しており、この裏通りは「認知の盲点」になっている。光学的なカモフラージュの必要はない〉
レイはそこでダルク公爵の計画阻止のための情報撹乱の準備を始めた。
「ダルク公爵が情報統制を狙うならば、その『情報』の信憑性そのものを破壊する」
彼の最初のターゲットは、公爵派に属する、権力欲の強い末端の男爵バートラムだった。彼は公爵の計画において、再開発地区の土地収用における実務を任されている人物だ。
レイはバートラムのプロファイルを頭の中で瞬時に展開した。
〈解析:バートラム男爵。
権力欲:極めて高い。
自己評価:過剰に高い。
実績:皆無。
最大の不安要素:ダルク公爵に『無能』と判断され切り捨てられること。
行動予測:常に公爵の意図を過剰に深読みして先走る傾向にある〉
レイはバートラムが持つ「恐怖」と「自己顕示欲」を刺激する情報を作成することにした。
作成した情報は、以下の三段階構成。
初期情報:ダルク公爵は再開発計画における通信網の導入について、特定の技術仕様を変更しようとしている。
確信情報:その技術仕様の変更はバートラムが担当する土地収用と深く関連しており、男爵の仕事に不備があったことを意味する。
危機情報:公爵は既にバートラム男爵を切り捨て、別の有能な貴族を後任に据える準備に入っている。真の目的は情報インフラの完全な掌握であり、末端の失敗は一ミリも許容しない。
これらの情報を信頼性の高い「第三者」の口からバートラム男爵に届ける必要があった。
レイが選んだのは王都の闇の情報屋「梟」と呼ばれるネットワークだった。彼らは金さえ積めば、どんな情報でも流す。レイは事前にギルドから得た裏金の僅かな端数を使い「梟」に接触した。
「この情報をバートラム男爵が最も信頼する情報屋、そして彼の妻の侍女に流してほしい。ただし『ダルク公爵の側近から漏れた極秘情報』としてだ」
レイは指示した。情報源の捏造。スパイ技術の基本中の基本である。情報を受け取ったバートラム男爵は、案の定、過剰に反応した。
〈解析:男爵は現在、パニック状態に突入。自己評価が崩壊寸前。この情報が「公爵から切り捨てられる兆候」だと解釈した確率は92%。彼の次なる行動は「自分の無能さを隠蔽するための、公爵への忠誠心の誇張」。すなわち再開発計画の実行を妨害する行為に移る〉
バートラム男爵は公爵に自身の価値を示すため、再開発計画を阻止しようとする「王女派のスパイ」をでっち上げ、大々的に捕縛しようと動き出した。しかし彼は誰をスパイに仕立て上げるべきかを知らない。パニックの中で最も手近で、かつ「公爵にアピールできる」人物を選んだ。
公爵派の末端の計画を批判していた、地元の有力な商業組合の会長だった。二日後。王都を騒然とさせるニュースが飛び交った。
「ダルク公爵派のバートラム男爵が、王女派のスパイを捕縛したと宣言!」
しかしその実態は会長が商業組合の資金繰りに関する公爵派の不正を告発しようとしていた証拠を、バートラム男爵が慌てて「スパイ活動の証拠」として捏造したものだった。
エリアル王女の別邸。王女はその知らせを聞いて憤慨した。
「バートラム男爵の愚かな行為だわ! なんの証拠もなく、組合長をスパイだと断じるなんて! 私たちに公爵を糾弾する口実を与えてくれたようなものよ!」
だが、レイは静かに首を横に振った。
「殿下、この一件はバートラム男爵の愚行ではありません。これはダルク公爵の計画の『自壊』です」
「自壊?」
「公爵の真の目的は情報統制のための『通信網の導入』でした。それを実行するためには、王都庶民の信頼が必要です。しかしバートラム男爵がなんの根拠もなく、庶民から信頼されている組合長を『スパイ』として捕縛したことでなにが起きたか――」
レイは一枚の報告書を王女の前に差し出した。それは王都庶民の声を速報で集めたものである。
『バートラム男爵は自分たちに都合の悪いことを言う人間を、王女派のスパイだと偽って捕まえた。再開発計画は庶民のためではなく、公爵個人の権力拡大のためのものだ』
「公爵派が庶民の『安全』と『インフラ改善』という名目で進めていた再開発計画は『庶民の敵』というレッテルを貼られました」
レイは結論づけた。
「ダルク公爵は『情報統制』を目的としていましたが、バートラム男爵の愚行によって、自身の情報源に対する『信用の崩壊』を招きました。計画は大衆の信頼という基盤を失い、ほぼほぼ実行が不可能となりました。公爵の計画は実質的に潰えたと見て間違いありません」
エリアル王女は目を見開きレイを見た。
この青年は自身の手を血に染めず、ただ情報を操作し敵の心理を誘導しただけで、ダルク公爵の緻密な計画を瓦解させたのだ。
「レイ……あなたは本当に恐ろしいわ。まるですべてがあなたの手のひらの上で転がされているようだわ」
「いえ、殿下。私が転がしたのはバートラム男爵の『自己評価の低さ』だけです。情報戦において、敵の感情的な弱点は最も脆い防壁となります」
ダルク公爵はその日のうちにバートラム男爵を公職から解任し、計画の中止を余儀なくされた。その損失は経済的なもの以上に、政治的な信用という点において計り知れないものとなった。
その夜、王都の裏路地。
漆黒の外套を纏った一人の女性が、レイの隠れ家である、時計職人のアトリエの裏手に立っていた。
ヴェラ・ノース。
アステラ王国の正規諜報機関「影の眼」の幹部であり、王族直属の最高位情報員の一人だった。彼女の任務は王位継承戦における「第三の目」として、王女派と公爵派双方の「異常な動き」を監視することだった。
対象――レイ・マンチェスター。辺境貴族の私兵。年齢十七歳。過去の経歴に特筆すべき点なし。しかし王都に来て一週間で、ダルク公爵の二つの主要な計画を「物理的な証拠を残さず」破壊した。これは異常だ。
ヴェラはレイがバートラム男爵に仕掛けた一連の情報撹乱の流れを完璧に把握していた。誰が、誰に、どんな情報を、どのようなルートで流したか――そのすべてを。
しかし理解できない点が一つあった。
なぜバートラム男爵は、その情報が「公爵側からの極秘情報」だと、寸分の疑いもなく信じ込んでしまったのか?
「ただの情報操作ではない。まるで相手の脳に直接『信じる』という感情を植え付けたような心理的バイアスだ」
ヴェラは自身の常識を超えたレイの手腕に警戒を強めた。彼女の所属する「影の眼」は、王国のあらゆる情報戦術、暗殺術、防御策を把握しているが、レイが使った手法は、そのどのカテゴリーにも属さない。
まるで異界の「情報戦のプロフェッショナル」が、未開の地に降り立って、その常識を破壊しているかのようだった。ヴェラは静かに、その場を立ち去る。
「レイ・マンチェスター。コードネーム【ファントム】。王国にとって光となるか、それとも仄暗い闇となるか? 私の『眼』は、あなたから離れないわ」
ダルク公爵の反撃は、これから本格化するだろう。しかしその反撃を受ける前に、レイは、この異世界で相棒を得ることになる。情報戦において【異能解析】を補完する、もう一つの特異な能力を持つ少女だ。
王国の深層心理を読み解く、影の戦いは始まったばかりだった。
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