まりこ橋

をはち

まりこ橋

須貝昭三は、祖父の代から続くネジ製造の家業を継いだ男だった。


金属を削り、磨き、ねじ込むその作業は、彼の血に刻まれた業だった。


会社は順調に成長し、従業員も増え、やがて手狭になった工場を郊外の広大な土地に移すことになった。


新工場の目の前には、幅わずか2メートルの小さな川が静かに流れていた。


川とは名ばかりで、子供が足を滑らせても溺れる心配のない、穏やかな水路だった。


その川に橋を架けることが決まった。


昭三は、自分の家を持つ者は多いが、自分の橋を持つ者は稀だと感じ、胸を高鳴らせた。


彼は橋に、愛娘・真理子の名をつけた。


「まりこ橋」。


その響きに、昭三は不思議な愛着を感じていた。


橋の建設が進むにつれ、昭三は日本の伝統的な橋の建築に強い興味を抱き始めた。


古い文献を読み漁り、橋の歴史や構造を学び、いつしかその探求は執念へと変わっていった。


ある日、地元の神社の宮司から奇妙な話を聞かされる。


「この土地で橋を架けるには、魂の捧げものが必要だ」。


古文書には、かつてこの地で架けられた橋には「人柱」が立てられ、川の神を鎮めたと記されていた。


最初は一笑に付していた昭三だったが、まりこ橋の名を口にするたび、娘の顔と橋の姿が重なり始めた。


真理子は17歳。


透き通るような瞳と、川のせせらぎを思わせる柔らかな笑顔を持つ少女だった。


昭三の心は、次第に「まりこ橋」と真理子を同一視する妄執に囚われていく。


「橋を守るには、魂が必要だ」。


その考えは、夜な夜な彼を苛み、眠りを奪った。


真理子は父の異変に気づいていた。


かつて温厚だった父の目が、最近はどこか遠くを見つめ、口元には不気味な笑みが浮かぶようになった。


ある晩、父が橋の設計図を手に「真理子、橋はもうすぐ完成するよ」と呟く声に、彼女は背筋に冷たいものを感じた。


家を出ようとしたが、昭三の視線に縛られ、逃げることはできなかった。


橋の完成式典が迫った前夜、昭三は真理子を連れてまりこ橋へと向かった。


月明かりに照らされた橋桁は、まるで巨大な獣の骨のように冷たくそびえていた。


昭三の手には縄が握られ、目は狂気で濁っていた。


「真理子、お前が橋になれば、すべてが救われる」。


彼の声は低く、まるで川底から響くようだった。


真理子は恐怖に震え、必死で叫んだ。


「お父さん、やめて!」


その叫び声が夜の静寂を切り裂き、近くの作業員たちが駆けつけた。


昭三は娘を橋桁に縛り付けようとした瞬間、作業員たちに取り押さえられた。


だが、彼の目はなおも橋を見つめ、唇は「まりこ橋…」と呟き続けていた。


錯乱した昭三は、突然その場を離れ、川へと身を投げた。


浅い川だった。


膝ほどの深さしかない水面が、月光を映してきらめいていた。


作業員たちが慌てて川に飛び込み、昭三を探した。


しかし、いくら探しても彼の姿は見つからなかった。


川底には何もなく、水は静かに流れ続けていた。


翌朝、まりこ橋の完成式典は予定通り行われた。


だが、誰もがその橋を渡るたび、川のせせらぎに混じるような、かすかな呻き声を聞いた気がした。


真理子は父の名を口にすることはなくなったが、夜になると、橋のたもとに立ち、川面を見つめる癖がついた。


彼女は知っていた。


あの小さな川のどこかに、父の魂がまだ漂っていることを。


そして、まりこ橋を渡る者たちが囁くようになった。


「夜、橋を渡るときは、決して川を見下ろしてはいけない。そこには、昭三の目が、じっとこちらを見ているから」と。

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まりこ橋 をはち @kaginoo8

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