91日目~100日目

91日目


音が聞こえない。息の音も、外の音も。手を動かすと、水の抵抗を感じる。部屋全体が沈んでいるようだ。机の上のノートが浮きかけて、また沈んだ。ページの隙間から泡が上がっていく。今日も風呂は長め。


92日目


窓の向こうに月のような光。水面の下から見ている気がする。手を伸ばすと、泡が弾けて指の先が消えた。痛くない。ノートの紙が柔らかくなって、指の跡で崩れていく。鏡が見当たらない。今日も風呂は長め。


93日目


壁が透けて、向こう側に部屋が見える。もう一つの部屋。机も椅子も同じ配置。そこに僕がいる。動きが少し遅れている。向こうの僕は、ページを閉じた。次の瞬間、こっちのノートが勝手に開いた。今日も風呂は長め。


94日目


夢と現実の境がない。廊下を歩いても、床が沈む。靴が見えない。光が斜めに差し込み、壁の影が水に揺れている。声を出そうとしたが、泡だけが口から漏れた。音が頭の中で反響する。今日も風呂は長め。


95日目


部屋の中に波が立つ。小さく、ゆっくり。机の脚が軋む。ノートが開いたまま揺れている。ページの端が水を吸って、色が滲む。紙の間から何かの影が見えた。指を入れると、冷たい。誰かの手に触れた気がした。今日も風呂は長め。


96日目


照明が消えた。暗いのに、すべて見える。空気が青い。ノートの上に水滴が落ちるたび、文字が消えていく。書き直そうとすると、もうペンがない。床の下から音。ゆっくりと叩くような、心臓のような音。今日も風呂は長め。


97日目


体が重い。動かすたびに水が流れる感覚。ノートの行が歪んで、文字が右上に流れていく。読めない。指を当てたら、そこからまた水がにじむ。天井の染みが円になって、まるで瞳のよう。見られている。今日も風呂は長め。


98日目


鏡が戻っていた。曇っている。拭うと、中に僕が立っている。肩まで水に浸かっていた。顔がゆっくりと浮かぶ。目がない。笑っているように見える。鏡の内側の水が外へあふれてきた。床が波打つ。今日も風呂は長め。


99日目


筆圧がかからない。ノートに触れても文字が沈む。紙の裏から、もう一つの筆跡が浮かぶ。なぞると指が透ける。視界がゆらいで、光が水面を割る。息ができない。水の中にいる。遠くで誰かが立っている。今日も風呂は長め。


100日目


静かだ。水も音もない。机の上にノート。最後のページを開いた。紙の上に僕の影が映る。手が勝手に動く。

「湯を止めたのに、水が止まらない。」

インクが滲んで文字が流れる。ここで筆跡がにじみ、ページの端まで広がって——


(以降、ページ全体が水に溶けた跡。記録はここで途切れる。)

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