81日目~90日目
81日目
目を覚ました。息の音がしない。胸は動いているのに、空気が入ってこない。鏡の中に白い靄。指で文字を書こうとしたら、曇りの中から同じ文字が浮かんできた。筆跡がずれて重なる。窓の外は水の色。今日も風呂は長め。
82日目
ノートを開いた。紙が指に貼りつく。書こうとすると、インクが浮いて形にならない。代わりに水滴が文字の形に並んだ。ひとつひとつが呼吸みたいに震える。音はなく、壁の染みが動いている。天井の隅が濡れて黒く光った。今日も風呂は長め。
83日目
名前を思い出そうとした。口の中で音が崩れる。自分の声がどんなだったかも曖昧。ノートに書いてみたが、文字が全部滲んで、読めない模様だけが残った。廊下で水が流れる音。足跡が勝手に進んでいく。今日も風呂は長め。
84日目
窓の向こうが海のように光っている。波はない。風もない。そこに立つ影の肩から雫が落ちる。指先まで同じ形。鏡を見ると、僕はいない。鏡の中の部屋が空っぽ。背中に冷たい気配。ふり向かない。今日も風呂は長め。
85日目
ノートの文字が逆向きに浮かんでいる。ページの裏から滲んだように、逆さまの文。読もうとしたら頭の中で音になる。言葉ではなく、水が流れる音。体の内側まで冷たくなる。呼吸が泡みたいに弾ける。今日も風呂は長め。
86日目
廊下を歩く。灯りがないのに見える。壁の中から水の音。床が柔らかい。足跡が増えている。歩くたびにひとつ増える。数えられない。影が並んでいる。みんな同じ姿。どれが僕かわからない。今日も風呂は長め。
87日目
天井から声がした。声ではない。水音の形で聞こえる。耳の奥で「帰れ」と響く。どこに、と思った瞬間、目の前の鏡が揺れた。曇りが消え、向こう側の部屋に誰かが立っていた。僕と同じ服。顔が水でできている。今日も風呂は長め。
88日目
ノートが勝手に開いた。文字が増えていく。僕が書いていない文。インクではなく水の筋で書かれている。「きょうも ふろは ながめ」と読める。誰が書いたのか考えたくない。ページの端が泡立っている。今日も風呂は長め。
89日目
夢の中で風呂に入っていた。水がぬるい。鏡の中で僕が浮かんでいる。体が動かない。水面に映った光が目に入る。瞬きできない。頭の中が静かで、耳の奥だけが波の音。目を閉じても消えない。今日も風呂は長め。
90日目
部屋に戻る。床一面に水。窓も壁も消えている。机とノートだけが残っている。ページの隙間から気泡。手を伸ばすと、指が透けて見える。鏡の中の僕が微笑んだ。口が動く。音は聞こえない。唇の形が「おわり」と見えた。今日も風呂は長め。
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