番外編 そのころトロは、、

 にゃあ。

 寒い夜だった。

 でも、ここはあったかい。

 魚の匂いと野菜の匂いが一緒にして、

 それに、二人の声。

 わたしの好きな匂いと音。



 今日は特別らしい。

 「本気の鍋」って言ってた。

 なんだか大変そう。

 ふたりとも、まな板の前で真剣な顔。

 冗談も言わない。

 まるで戦い。

 いや、戦いというより……狩り?


「鰤は腹のほうは大きめにカットして――」

 魚屋のひと、汐が低い声で言う。

 包丁がしゃっしゃっと鳴る。

 かっこいい。

 魚の切り身が光ってる。


「白菜は黒い点があるほうが甘いんだよ」

 八百屋のひと、菜々が笑う。

 その声はやわらかくて、

 まるで出汁みたいに空気を包む。


 わたしは二人の間でくるっと回る。

 魚の匂い、野菜の匂い、どっちも好き。

 どっちも“わたしの家の匂い”。



 汐が言う。「蕪はどうするの?」

 菜々が答える。「皮ごとむくの!」

 むくの? それはむくって言わないのでは?

 でも美味しくなるらしい。

 人間の料理はむずかしい。

 わたしのごはんはいつも簡単だ。

 “汐の手からもらう魚のはしっこ”か、

 “菜々の野菜の葉っぱの切れ端”。


 でも今日は、どっちも出てこない。

 匂いだけ、じゅるり。



「トロ、そこ危ないから下がって」

 汐が言う。

 あ、ばれた。


「ごめんね、あとで少しね」

 菜々が頭をなでる。

 ふたりとも手は魚と野菜で忙しいのに、

 ちゃんとわたしの頭も撫でてくれる。

 それだけで、今日も幸せ。



 鍋がぐつぐつ鳴き始めた。

 まるで生きてるみたいに音を立てる。

 ふわっと広がる湯気。

 あの中に魚がいる。

 おいしい魚。

 ふしゅー……にゃあ(うらやましい)。


 菜々が味見しようとして、汐に止められる。

 「完成まで我慢。それがプロ」って。

 でも、わたしから見たらどっちももう“食べたい顔”。

 人間は面白い。

 お腹すいてるのに、我慢してる。

 でも、なんだか楽しそう。



 やっと「完成!」って声がした。

 ふたりの顔が同時にほころぶ。

 わたしもテーブルの端にぴょん。

 ちょっと近くで見たい。

 いい匂い。

 お湯の上に丸い魚と白い野菜。

 ふたりが箸を動かすたび、

 出汁のしずくがきらきら光る。


「おいしい」

「だろ」

 そう言って笑う二人の顔、

 湯気の中でやわらかくて、

 まるでおんなじ色をしてた。



 そして事件。

 菜々が“しゃぶしゃぶ”って言って、

 汐に魚を渡した瞬間。

 わたし、動いた。


 狙ってたのはその切れ端。

 ふたりのすきまをすり抜けて、ひょい。

 箸から落ちたブリのかけらを――ぱくっ。


「トロ!!」

「にゃにゃにゃ(ごめんなさい!)」


 ふたりの声がハモる。

 でも本気で怒ってない。

 笑ってる。

 笑いながら菜々がわたしの頭を軽くぽん。


「もう、トロも本気だったね」

「魚屋と八百屋と猫の鍋、だね」

「それいい、名前にしよっか」

「“三にゃべトリオ”」

「……汐、それ今の思いつきでしょ」


 わたしは尻尾を立てて「にゃあ」と鳴く。

 悪くない。むしろ、誇らしい。



 そのあとは、静かであたたかい時間。

 ふたりが鍋を食べて、雑炊を作って、

 湯気の中で笑ってる。

 テレビの音も、風の音もいらない。

 ただ二人の声だけで、部屋が満たされる。


 そして、最後。

 菜々が「また作ろうね」って言って、

 汐が「うん」って答える。

 その瞬間、ふたりの視線が少しだけ重なった。

 鍋の湯気がふたりを包んで、

 その隙間に、わたしのあくびが入り込んだ。


「……トロ、眠そう」

「食べすぎなんじゃない?」

「ちょっとしか食べてないもん」

「ふふ」


 ふたりの笑い声。

 わたしはこたつの下に潜り込みながら思う。


 魚屋と八百屋が一緒にごはんを作る夜は、

 いつもより家があたたかい。

 あの人たちは、たぶんまだ気づいてないけど、

 鍋よりも、もっとあったかいものが、

 もうここにできてるんだよ。


 にゃあ。

 今日もいい夜。

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