第22話 春風、桜の下で
――菜々
朝、店の前の桜並木が淡い桃色に変わっていた。
まだ満開じゃないけど、風に揺れる花びらが
八百屋の軒先まで届く。
冬の間は白かった空が、今日はやわらかい水色。
空気が少し甘い。
たぶん、春の匂い。
「おはよう、菜々」
「おはよう、汐。あ、見て。桜咲き始めた」
「ほんとだ。去年より早いね」
「うん。……あ、ちょっと」
私は汐の肩にひらりと落ちた花びらをつまんだ。
指先で取る瞬間、心臓がくすぐったくなる。
「花びら似合うね」
「魚屋に花びらは似合わないよ」
「似合うよ。なんか……優しい感じ」
「菜々の言葉、たまに恥ずかしい」
「それ、褒め言葉でしょ?」
「……たぶん」
“たぶん”って、やっぱり春でも変わらないらしい。
⸻
昼過ぎ。
商店街の人たちがみんな花見の準備を始めていた。
今年は通りの真ん中で、出店を並べてのんびり宴会をするらしい。
もちろん、八百屋と魚屋も出店参加。
「菜々の店、何出すの?」
「春野菜の天ぷら! 菜の花とタラの芽!」
「いいね。じゃあうちは桜鯛の昆布締め」
「名前からして勝負にきてる」
「春限定メニューだから」
「じゃあ、勝負ね」
「……また?」
「季節ごとに勝負するって決めたじゃん」
「そんな契約あった?」
「いま結んだ!」
汐があきれたように笑う。
その笑い方が、春みたいで優しい。
⸻
午後、店を閉めてから、
ふたりで通りの端の桜を見に行った。
屋台の人たちが片づけをしていて、
空には夕方の光が薄く伸びていた。
並んで歩くと、風が吹いて、
桜の花びらがふわっと舞い上がった。
「……春、だね」
「うん」
「去年の今頃、何してたっけ?」
「たぶん、ケンカしてた」
「あー、あれね。きゅうりの値段で」
「そう。菜々が頑固すぎて」
「汐が譲らなかったからでしょ!」
「たぶんね」
「その“たぶん”の万能感どうにかして」
二人で笑う。
でも、笑いながら胸の奥が少しあたたかい。
ケンカしても、結局こうやって隣にいる。
そういうの、たぶん恋って言うんだろうな。
⸻
桜の下のベンチに座って、
買ってきたお団子を半分こにする。
「みたらし、汐はあんこ派?」
「いや、団子は塩気がある方が好き」
「なるほどね。やっぱ魚屋の舌だ」
「菜々は?」
「わたしは……甘いのが好き」
「性格通り」
「どゆこと!」
「悪口じゃない。……褒めてる」
汐が団子の串をくるくる回しながら、
風に目を細める。
その横顔を見ながら、私は思った。
冬も、春も、
どんな季節になっても、やっぱり隣がいい。
⸻
沈黙が少しだけ続いたあと、
汐が小さく息を吸った。
「菜々」
「ん?」
「……鍋の時、言えなかったことがある」
「え?」
心臓が一気に跳ねた。
汐は桜を見上げたまま、ゆっくり言葉を選んでいる。
「一緒に料理してるとき、
すごく楽しかった。
それと……すごく安心した」
その声は、
魚屋の包丁の音みたいに静かで、真っすぐだった。
「菜々が隣にいると、
なんか、ちゃんと“生きてる”って感じがする」
「……」
風が、桜を揺らした。
花びらがふたりの間を通り過ぎる。
それでも汐の声だけは、まっすぐ耳に届いた。
「だから、これからも一緒にいたい」
私は、笑った。
涙が出そうなのに、
自然に笑えた。
「それ、告白?」
「……たぶん」
「もう、“たぶん”禁止!」
笑いながら、私は汐の手を取った。
春の風がふわっと吹いて、
桜の花びらがふたりの髪にとまる。
「……わたしも、ずっと一緒にいたい」
汐が少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、
冬から続いていた心の中の雪が、全部溶けた気がした。
⸻
通りの向こうで、トロがのんびり歩いてくる。
尻尾をぴんと立てて、
まるでふたりを祝福するみたいに。
「……トロ、春でも毛がふわふわだね」
「菜々も」
「え?」
「ふわふわ」
「もーっ、汐!」
「褒めてる」
「はいはい、もう!」
笑い声が桜の下に響く。
春の夜風が、甘く揺れた
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