第20話 春を待つ店先で
――菜々
朝、シャッターの隙間から冷たい白い光が差し込んだ。通り一面、ふかふかの新雪。息を吸い込むと鼻がつんとして、でも気持ちいい。私は手袋を叩いてから、ガラガラっとシャッターを上げる。
「……わぁ、まっしろ!」
足跡のない真っ白な道に、最初の一歩を置く。きゅっ、と可愛い音がした。それだけでちょっと嬉しくて、二歩三歩と鳴らしていたら――
「菜々、後ろ」
低めの声。振り向いた瞬間、ほっぺにふわっ、と冷たいのが当たった。
「ひゃっ!」
隣の魚屋の前。汐が無表情っぽい顔で、手には完璧な球体の雪玉。口元だけ、絶対笑ってる。
「おはよう」
「おはようじゃない! いきなりは反則!」
「朝はスピード勝負」
「どこの魚市場理論!」
むむむ、と私は足元の雪を両手でわしわし。ぎゅぎゅっと丸めて、狙いを定める。私は八百屋、でも投擲は野菜だけに限らない。
「えいっ!」
見事、汐の肩に直撃。白い粉がふわんと舞って、汐が目を細めた。
「……やるね」
「当然! 鍛えてますから。毎日段ボール投げてるもん」
「それ、筋トレじゃなくて雑な片づけ」
言い合いながら、二人目もとの雪を手早く丸める。私の方が早い、今ならいける。投げるフェイント一回、二回――
「っ!?」
足が、雪でつるん。私は見事に後ろへすってんころりん――になる前に、腰をしゅっと支えられた。
「危ない」
汐の腕。近い。近いどころじゃなくて、もう抱えられてる角度。顔、近い。まつげ、長い。息、白い。心臓、うるさい。
「……ありがと」
「どういたしまして」
汐は何事もなかったみたいに手を離す。そこで終わらせないのが私。
「よし、ご褒美にこれ!」
私は用意していた(さっき丸めといた)ミニ雪玉を、汐の首元にそっと――
「つめっ」
「ふふふ、大成功!」
「反撃」
「ひゃあっ冷たい冷たい冷たい!」
いつの間にか、通りを歩く近所の人たちが笑いながら見物している。「若い子は元気ねぇ」って言われるけど、私は元気じゃない。正確には、汐のせいで元気になってしまう体質だ。
「菜々、その帽子、ずれてる」
「え、どこ?」
「ここ」
汐が手袋の親指で、私の額の雪をそっと拭う。やさしい、やさしい触れ方。そのまま親指が帽子の縁を小さく直した。近い。また近い。ダメ、心臓、うるさい。
「……ありがとう」
「ううん。――続き、やる?」
「やる!!」
やると言ってから、やっぱりすぐ投げないのが私。焦らず、雪質を見極めて、ちょい水分、ぎゅっ、仕上げ。よし、優等生雪玉。
「くらえ、八百屋特製・もちもちスノーボール!」
「ネーミングの食感が矛盾してる」
「でも当たる!」
ぽすっ。汐のコートの胸に綺麗にヒット。私は両手を上げてガッツポーズ。
「勝った! 今日の勝者は私!」
「判定はまだ。――ほら」
汐が指差した先、八百屋の看板の上。私のさっきの雪玉の余波で、積もってた雪がばさっと落ちてきて――
「ひゃっ!?」
肩に白い滝。勝者のはずが白粉だらけ。笑いが止まらない汐。
「……ずるい」
「自然現象」
うう、悔しい。けど、楽しい。悔しいけど、嬉しい。胸の真ん中が、雪より熱い。
「待ってて。貸す」
汐が自分のマフラーの端を私の首元にふわっと掛けた。ふっと近づく匂い――潮と石鹸がまざった、冬の匂い。少しだけ目が合った。こんなに寒いのに、ほっぺだけ夏みたい。
「……あったかい」
「菜々、すぐ冷えるから」
「じゃあ、汐も。ほら、私の手袋、片方どうぞ」
「片方?」
「片方」
「それ、意味ある?」
「こうやって――」
私は自分の右手袋を汐の左手に。残った私の左手と、汐の右手は素手のまま。そして、自然に、そこが触れる。ひゅっと息が揃った。
「……指、冷たいね」
「うん。でも、すぐあったかくなると思う」
私たちはそのまま、店先の雪かきへ。ほうきで掃くたびに、肩が触れたり離れたり。冗談を言い合うたび、手のひらの熱がちょっと増える。雪かきって、こんなに甘かったっけ。
「トロ、見てる」
足元で猫が尻尾をぱたぱた。私の鼻先に雪が付いたのを、汐が笑って指で拭ってくれる。
「……ありがと」
「どういたしまして」
「キス、する?」
「えっ」
「冗談です!」
「……菜々」
あわてる汐、かわいすぎ。私の心臓、冬を通り越して花見中。
「ねぇ汐」
「なに」
「雪合戦、私の勝ちでいいよね?」
「引き分け。――ただ、もう一回やるなら今度は勝つ」
「宣戦布告、受けて立つ!」
握った手が、同時に小さく力を込めた。白い息が二つ、重なる。私は知ってる。雪は冷たいけど、私たちはどんどんあったかくなる。
⸻
――汐
新雪の朝は、音がきれいだ。菜々の靴底がきゅっ、と鳴るたび、こっちの心拍と同期する。朝いちの雪玉は、ちょっと意地悪だったかもしれない。でも、菜々のむっとした顔が見たくてつい――結果的に、たくさん笑ってくれたから、許してほしい。
反撃は見事。肩に当たった瞬間、思わず「やるね」って言ってしまった。昔から、菜々は本番に強い。テストも運動会も、お祭りの屋台も。そして今日の雪合戦も。
転びかけた菜々を支えたとき、驚くほど軽かった。細い腰に手が回って、反射で引き寄せる。抱える、というより、落ちないように包む。心臓の音が自分のものか菜々のものかわからない。たぶん両方。
菜々が仕返しに首元に入れた雪は本気で冷たかった。首筋を抜けた冷気のおかげで余計な台詞が喉に引っかかる。危ない。言いそうだった。「かわいい」って。まだ、言わない。けど、顔には出てる気がしてならない。
帽子の雪を拭うと、菜々の目がまっすぐこっちを見る。まつげに雪が残って、光る。まばたきのたび、その雪が溶ける。綺麗だった。ああ、今なら言えるかもしれない――そう思った瞬間に「続き、やる?」って言ってしまうのが私の悪い癖。
自然現象に助けられた勝負の流れ。看板の雪が落ちたのは私の仕込みじゃない。けど、結果的に菜々はもう一回笑ってくれた。笑うたび、頬が少し赤くなる。冬の反射板みたいに可愛い。
マフラーを半分かけた時、菜々の髪がふわっと触れた。潮と石鹸、じゃなくて今日は柑橘の匂い。八百屋の冬の匂いだ。思わず深呼吸してしまって、ばれないように咳払いでごまかす。
手袋を片方交換。意味ある?って訊いたけど、すぐ意味がわかった。素手の指先が触れた。ひやっとして、すぐ温まる。温度差が、嬉しい。菜々が「すぐあったかくなると思う」って言ったから、私はそれを信じる。信じたいだけかもしれないけど、今日の私は素直でいい。
雪かきは共同作業。リズムはすぐ合う。昔から、作業のテンポは似ている。祭りの仕込み、屋台の当番、仕入れの段取り。たぶん、人生のテンポも、合う。
「キス、する?」の悪戯は、正直ずるい。心拍が跳ねた。菜々は笑って冗談だという。冗談でよかった。いや、よくない。ちょっとだけ、よくない。でも、今はそれがちょうどいい。
トロが見物台から落ちそうになって、二人同時に手を伸ばした。手と手が触れて、猫の背中にぽすっと重なる。三つ巴のぬくもり。トロが「にゃ」と短く鳴いた。猫の合図で、人間二人が笑う。平和すぎる朝。
人通りが増えてきた。近所のおばあちゃんが言う。「若いっていいねぇ」。菜々が「まだ若いです!」って元気に返す。私は頷くだけ。でも、胸の中では同じことを言ってる。若いのは年齢じゃなくて、朝ごとに何度でもはじめられる気持ちだ。
雪合戦の勝敗は、引き分けで押しきった。菜々は「勝ち!」と主張したけど、次の約束をもぎ取ったのは私だ。「もう一回やるなら今度は勝つ」。宣戦布告は甘い。菜々は受けて立つと言って、手をぎゅっと握ってきた。勝っても負けても、これは正しい握り方だ。
昼には雪がやみ、屋根から水が落ちる音に変わった。店先に小さな川ができる。菜々が箒で水路を作って、私はシャベルで雪を削って、川をひとつに繋いだ。合流地点を見て、菜々が言う。
「ね、これ、うちらっぽくない?」
「どういう意味」
「別々の店なのに、いつも真ん中で合流して、一緒に流れてく感じ」
「……うん。いい比喩」
本当はもうちょっといい言葉があった気がする。でも、見つからなかった。代わりに、ポケットから飴を出して菜々に渡した。冬限定の柚子飴。菜々が目を輝かせる。
「えっ、これ好き!」
「知ってる」
「ずるい、なんで知ってるの」
「隣にいるから」
言ってから、少しだけ照れた。菜々は頬を押さえて、笑って、それから飴をぱりっと噛んだ。冬の光が、残った雪に跳ねて、まぶしい。
夕方、風がやんだ。空の色がやわらいで、春の入口みたいな薄い水色。雪合戦の跡は、もう半分くらい水になっている。けれど、足跡だけはくっきり並んで残っていた。近い。今までより、少し。
「ね、汐」
「うん」
「また降ったら、今度は賭けをしよう!」
「どんな」
「勝った方が、負けた方になんかひとつお願いできる、みたいな」
「お願いの内容は?」
「それは勝ってから考えるの」
菜々がそう言って、マフラーの端をまた半分私に渡した。私は受け取って結び目を作る。二人の首に同じ布の輪ができる。たぶん、これも宣戦布告の一種。甘くて、あたたかい、平和な戦争。
「……じゃあ、負けないように練習する」
「雪玉の?」
「お願いされたいから」
菜々が目を丸くして、それから笑った。笑うと、春が早く来る気がする。雪はゆっくり溶ける。けれど、私たちの歩幅はもう、春の速度になっていた。
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