第19話 白い朝、まだ言えない気持ち
朝、世界が静かだった。
音が雪に吸い込まれて、
通りのざわめきも聞こえない。
窓を開けると、うっすらと屋根に白い粉が積もっていた。
マフラーを巻きながら外に出ると、
冷たい空気の中に魚の匂いが混じっていた。
――あ、汐がもう店を開けてる。
「おはよう、汐!」
「おはよう、菜々。雪、積もってる」
「ね、きれい」
「寒いけど」
「……手、真っ赤」
「氷触ってるから」
「ちょっと、こっち来て」
私は八百屋のカウンターの奥から、
自分のポケットカイロを取り出して汐の手に押しつけた。
「はい、あったかいでしょ」
「……あったかいけど」
「けど?」
「菜々の手の方があったかい」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
冗談っぽく言ってるのに、声が優しすぎて。
「な、なにそれ……そういうこと急に言うのずるい」
「事実を言っただけ」
「ずるい」
「うん、たぶん」
“たぶん”――またそれだ。
でも今日は、少しだけその言葉が愛しく聞こえた。
⸻
午前の間、雪は静かに降り続いていた。
お客さんも少なくて、商店街はどこか時間が止まったみたいだった。
汐が魚を並べ直しているのを横目で見ながら、
私はカブの葉を切り揃えていた。
その姿を見ていると、
なんだか胸の奥がきゅっとなる。
凛としてて、静かで、
なのに、ほんとは誰よりあったかい人。
⸻
昼過ぎ。
トロが八百屋の棚の下から顔を出して、
雪の上に出たがるように鳴いた。
「だめ、トロ。寒いよ」
「出してあげていいよ」
汐が声をかける。
「トロ、雪見るの初めてだもん」
「……じゃあ、ちょっとだけ」
ふたりで見守る中、
トロが雪の上を一歩踏む。
足跡が小さく残る。
それを見て、菜々も汐も笑った。
「トロの足跡、かわいいね」
「うん。……菜々の足跡も隣にある」
「え?」
「並んでる」
「あ……ほんとだ」
並んだ足跡が、雪の上に二本の線を描いている。
その光景を見つめながら、
何かを言いたいのに言えない沈黙が、やさしく続いた。
⸻
夕方、雪はやんで、空が淡い灰色に染まった。
商店街の灯りがぽつぽつとつき始める。
「菜々」
「ん?」
「今日の夜、鍋またしようか」
「いいね。白菜、まだあるよ」
「魚はブリ、持ってく」
「贅沢!」
「雪の日だから、特別」
“特別”という言葉に、
思わず胸の奥があたたかくなる。
⸻
夜。
鍋の湯気が部屋に満ちる。
ふたりの間のテーブルの上に、
湯気と香りと、少し照れくさい沈黙が混ざっていた。
「ねぇ、汐」
「うん」
「この間の……手の話、覚えてる?」
「覚えてる」
「今日も、同じくらい寒いね」
「……うん」
「だからまた、手、つないでいい?」
汐が少し笑って、
お玉を置いて、ゆっくりと手を伸ばした。
「……うん」
手と手が重なる。
鍋の湯気がふたりの顔のあいだを包む。
それだけで、
言葉はいらなかった。
⸻
雪がすべての音を消して、
残ったのは、ふたりの息づかいだけ。
“好き”という言葉は、まだ口にできない。
けれど、きっと伝わっている。
それが、今のふたりの冬の形だった。
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