番外編 トロの1日 八百屋と魚屋の間で
朝、寒い。
でも、ここは好きな場所だ。
魚の匂いがして、野菜の匂いもする。
人間たちは“市場の空気”って呼ぶけど、
私には“朝ごはんの匂い”にしか思えない。
――にゃあ。
鳴いてみると、どちらかがすぐ反応する。
「おはよう、トロ!」
それは明るい方の声。菜々。
甘い匂いのする人。
いつも私の頭をなでて、「今日もかわいいね」って言う。
「おはよう、トロ」
こっちは静かな方の声。汐。
冷たい手で撫でるけど、指の動きが優しい。
魚を扱う人の手。
私、あの手が好きだ。
ふたりの声が聞こえると、朝が始まる。
これが毎日のルーティーン。
⸻
日が昇ると、菜々が野菜を並べて、汐が魚を並べる。
私はその間を歩く。
魚の方は少し寒い。氷の上は足が冷たい。
でも、匂いがたまらない。
「トロ、氷の上はダメだよ」
汐がそう言って抱き上げる。
冷たさと一緒に、ほんのり魚の匂いがする。
私はその胸に顔をうずめて、
ほんの少しだけゴロゴロ鳴いた。
「また魚屋に入り込んで!」
菜々が笑いながらやってくる。
私を受け取って、
頬を寄せながら言った。
「トロはうちの子なんだからね」
「いや、うちの前で拾ったんだから魚屋の子」
「八百屋のダンボールに入ってたの!」
「魚の匂いにつられてただけでしょ」
私はふたりの腕の間で聞いている。
どっちでもいい。
私は、“ふたりの子”だから。
⸻
昼、陽があたると段ボールがあたたかくなる。
私はそこに丸まって昼寝をする。
夢の中でも、菜々と汐の声がする。
「これ安いよ」「今日の魚きれいだね」「トロが寝てる」
全部、やさしい音。
⸻
夕方、店の灯りがオレンジ色に変わるころ。
汐が魚を片付けて、菜々が野菜を並べ直す。
その隙間を通り抜けるのが、私の小さな冒険。
菜々の足元をくぐって、汐の膝の上に飛び乗ると、
ふたりが同時に声を上げる。
「トロ!」「トロ!」
……うん、やっぱり、私は人気者。
⸻
夜。
シャッターが半分閉まって、通りが静かになる。
菜々は私を抱っこして、
「今日もありがとう」って言う。
何に対してなのかは分からない。
でも、菜々の声は、あたたかい。
汐は、手を振るだけ。
でも、その手にはいつも魚の匂いが残っている。
私はその匂いを嗅ぐたび、
“家”がふたつある気がしてうれしくなる。
⸻
夜、菜々の部屋のストーブの前。
毛づくろいをしていると、
外の風の音が聞こえた。
遠くで、汐の冷蔵庫の音もする。
私は目を閉じる。
魚の匂いと、野菜の匂い。
どちらも混ざったこの場所が、
世界でいちばん落ち着く場所だと思う。
⸻
眠りに落ちる直前、
菜々が布団の中から小さくつぶやいた。
「……おやすみ、トロ」
私は“にゃあ”と返事をする。
それは、
“おやすみ、菜々。おやすみ、汐。”
という意味。
明日もまた、ふたりの声で始まる朝を迎えるんだろう。
私はそれが、いちばん幸せ。
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