番外編 汐の一日

 朝、まだ外が薄暗いころに目が覚める。

 冬の朝の冷たさが、好きだ。

 肌がきゅっと引き締まって、気持ちが冴える。


 顔を洗って髪をまとめ、

 小さく息を吐くと白くなった。

 それを見るたび、今日も一日が始まるんだなと思う。


 魚屋の冷蔵庫を開ける。

 金属の扉が鳴って、冷気が足元に流れる。

 氷の上に並ぶ魚たちを確かめる。

 鯖、鰆、鯛、ブリ。冬はどれも脂がのっている。


 包丁を研ぐ音が、静かな朝に響く。

 その音が、私の一日の始まりの合図。



 シャッターを開けた瞬間、いつもの声が聞こえた。


「おはよう、汐ー!」


 声の方向を見るまでもない。

 菜々の声は、通り全体が目を覚ますみたいに響く。


「おはよう。手、冷たそうだね」

「うん。でも目が覚める」

「……うん。ならいい」


 その明るさに、心の奥のどこかがほっとする。

 毎日聞いてるのに、飽きない声だ。



 開店して少し経つと、猫が現れる。

 白と灰色の毛並み。名前はトロ。


 魚屋の私のところへ、まっすぐ歩いてくる。

 魚の匂いにつられてるのは明らかだけど、

 この子が嫌いになれない理由も分かっている。


「おはよう、トロ」


 箱の上で丸まる猫に指を差し出すと、

 少し鼻を寄せてくる。

 その仕草が、菜々に似ている気がして笑ってしまう。


 ――名前をつけたのは、私だ。


 拾ったとき、菜々が野菜の箱を抱えて駆け寄ってきた。

 泣きそうな顔で、冷たい猫を見つめていた。


「魚が好きそうな顔してる」

「もう、どんな顔よ!」

「じゃあ“トロ”で」


 本気で怒るかと思ったけど、

 菜々は困ったように笑って、「……変だけど可愛いね」と言った。


 あの時の顔が、忘れられない。



 昼前、菜々が声をかけてくる。


「汐ー! このカブ、見て! 立派でしょ!」

「うん、いいね。甘そう」

「でしょ! 夕飯に入れてあげる!」

「誰に」

「トロに!」

「……私じゃないんだ」

「なに?」

「なんでもない」


 こういう時、自分が少し子どもっぽくなる。

 でも、それを菜々はたぶん気づかない。

 それでいい。



 昼過ぎ、魚を並べ替えていると、

 外からトロの鳴き声がした。

 見ると、菜々の店の前で丸まっている。

 その足元に、菜々がしゃがみこんでいる。

 やさしい手つきで猫の頭を撫でていた。


 その光景を見ているだけで、

 どうしようもなく胸が温かくなる。



 夜。

 仕事を終えて、厨房の灯りを落とす前に、

 トロがまたやってきた。


「おまえ、菜々のとこ帰らないの?」


 猫は「にゃあ」と一声鳴いて、

 ゆっくり八百屋の方へ歩いていく。


 ガラスの向こうで、菜々が笑って手を振っている。

 その仕草に小さく手を上げて応える。


 通りはもう静かで、

 冷たい風が頬を撫でる。

 でも、心の中だけはあたたかかった。



 店の灯りを消して、空を見上げる。

 冬の星が冴えて見える。

 この空の下に、菜々がいて、トロがいて、

 私は魚をさばいて、生きている。


 それだけで、十分だと思える夜だった

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