番外編 菜々の1日
朝、目覚ましが鳴るより先に、
枕元で「にゃあ」と鳴く声がする。
「おはよう、トロ」
この子の名前を呼ぶとき、いつも少し笑ってしまう。
八百屋なのに、猫の名前が“トロ”。
友達に言うとだいたい笑われるけど、理由はちゃんとある。
――汐が名付けたのだ。
拾ったのは2年前の冬。
商店街の裏で冷たい箱の中に丸まっていた。
汐が魚を運んでいる時に見つけて、私を呼んだ。
「菜々、これ。生きてる」
「えっ、ちっちゃ……!」
「猫だ」
「わかってる!」
「魚好きそうな顔してる」
「どんな顔!?」
「じゃあ、トロで」
「ちょっと! 八百屋の私が“トロ”飼うの!? 野菜の名前にしようよ!」
「でも、菜々の隣で育つなら、魚の名前の方がいい」
その時の汐の声が、やけに優しくて。
結局、私は何も言い返せなかった。
だからトロは、魚屋と八百屋の真ん中の猫。
私と汐の間を、自由に行き来する子。
⸻
朝7時。
店のシャッターを開けると、空気が冷たい。
手がかじかむけど、鼻の奥がすっと冴えるこの感じが好き。
「おはようございますー!」
声を出すと、隣の店ののれんが揺れた。
「おはよう、菜々。もう開けたのか?」
「うん。汐も早いね」
「魚は朝が勝負だから」
「野菜も朝が勝負!」
「じゃあ勝負する?」
「えっ、なにで!?」
「売り上げ」
「負けないもん!」
朝の挨拶が、だいたい勝負ごとになるのが私たちらしい。
だけどこの“競い合い”がないと、たぶん物足りない。
⸻
午前中はずっと、野菜の葉っぱを整えたり、
お客さんと話したり、通りを掃いたり。
トロは、陽だまりの段ボール箱の上で丸まって寝ている。
その姿を見ながら、ふと口元が緩む。
「菜々ー、これ見て」
声の方を見ると、汐が新しい魚を持ってきていた。
銀色に光る鰆(さわら)。
「きれい……!」
「冬の鰆は脂がのるんだ」
「じゃあ、野菜も負けないようにカブ出す!」
「いい勝負だね」
その言葉に、また心が少し跳ねる。
⸻
お昼ごはんはいつも、店の奥で簡単に済ませる。
今日はカブの味噌汁と、おにぎり。
そこへ汐がやってきた。
「菜々、トロこっち来てた」
「あ、また勝手にお邪魔したのね」
「刺身の匂いにつられたっぽい」
「ほんとに魚の子だなぁ」
「でも帰るとき、ちゃんと菜々の方見て鳴いてたよ」
「……ほんと?」
「うん」
たったそれだけの会話で、
なんだか胸の奥がじんわり温かくなる。
⸻
午後はお客さんが途切れず、あっという間に日が傾く。
野菜を片付けて、シャッターを半分閉めたころ、
汐が仕事を終えて通りに出てきた。
「今日、夕飯どうする?」
「うーん……鍋、かな」
「じゃあ魚、持ってく」
「うそ、ほんと?」
「トロにも分けてやる」
「やったね、トロ」
汐の隣で笑いながら、
私はもう何年も、この時間が一日のご褒美みたいになってる。
⸻
夜。
店の電気を落として、トロを膝にのせる。
遠くで、汐の店の冷蔵庫の音が小さく響く。
その音を聞きながら、私は心の中で思う。
――あの子のつけた名前でよかった。
魚屋と八百屋の間で育ったトロ。
その名前を呼ぶたび、私は少しだけ、汐のことを思い出す。
トロが“にゃあ”と返事をする。
私は笑って、猫の頭をなでた。
「おやすみ、トロ」
その声が、静かな夜に溶けていった。
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