第17話 秋晴れと、2人の小さな約束

――菜々


 秋晴れの日は、空がやけに高く見える。

 風が乾いていて、木の葉の匂いが少し混じる。

 市場までの道を、私は軽い足取りで歩いていた。

 前を歩く汐の背中が、光を受けてきらりと揺れる。


「ねぇ汐」

「ん?」

「秋の空って、なんか切なくならない?」

「そう?」

「うん。なんか……夏の余韻みたいなのがまだ残ってるのに、遠くに行っちゃいそうで」

「菜々って、そういうとこ詩人だな」

「褒めてる?」

「たぶん」


 たぶん、って言葉。

 汐がよく使う。

 確信よりも優しさが先に来る言葉。

 だから私は、汐の「たぶん」が好き。



 市場の入り口は人でいっぱいだった。

 今日は地元の秋の収穫市で、八百屋も魚屋も仕入れが忙しい。

 私は大きなバスケットを抱えて、果物売り場のほうを覗いた。


「柿、安い!」

「菜々、落ち着いて」

「だって、見てよこの艶! ぷるんぷるん!」

「果物で擬音使う人、初めて見た」

「汐は感性が足りないの!」

「いや、充分変わってると思うけど」


 笑いながら、私は柿を選ぶ。

 汐は隣で魚の冷蔵ケースを覗き込み、指先で軽く氷を撫でた。

 何気ない仕草なのに、見惚れてしまう。



「ねぇ、菜々」

「なに?」

「この鯛、いい感じ。どう?」

「……綺麗」

「うん。皮の色が秋っぽい」

「秋の鯛って、少し甘い匂いするよね」

「わかる?」

「わかるよ。だてに隣で見てないもん」


 汐が少し笑った。

 その笑顔に、胸の奥がふっと温かくなる。



――汐


 菜々は市場に来ると、ほんとに楽しそうだ。

 目がきらきらして、子どものみたいに全部に興味を持つ。

 私の視界の中で、菜々が笑うたびに、

 空気がやわらかくなっていく気がする。


「汐、こっちのほうが安い!」

「安さで選ぶと味で泣くよ」

「ぐぬぬ」

「見た目で選ぶのも違うけど」

「じゃあ汐は?」

「匂いで選ぶ」

「魚屋っぽい」

「八百屋も匂いで選ぶだろ」

「たしかに!」


 会話のリズムが自然で、

 昔からこうして歩いてきたような気がする。

 手は繋いでいない。

 でも、同じ方向を向いている。

 そのことが、たまらなく心地いい。



 帰り道。

 夕陽が傾きはじめて、通りに長い影が伸びていた。

 私たちは袋を両手に持ちながら、並んで歩いていた。

 風が少し冷たくて、菜々の髪が頬に触れた。


「ねぇ汐」

「なに」

「この前の祭りの時、手を繋いだでしょ」

「うん」

「……また、繋いでもいい?」


 歩く足が、少し止まった。

 菜々が真剣な目でこちらを見る。

 私は、静かに片方の手を出した。


「うん、いいよ」


 菜々の手が、そっと重なる。

 指先が柔らかくて、少しひんやりしていた。

 でもその冷たさが、どこか懐かしくて心地よかった。



――菜々


 汐の手は、やっぱり少し大きい。

 そして、手のひらの形が綺麗だ。

 女性らしいのに、安心する。


「なんか……ね、変な感じ」

「うん」

「普通に歩いてるだけなのに、ドキドキする」

「私も」


 風が通り抜けて、木の葉がかすかに揺れた。

 空は少しだけ赤く染まっていて、

 影が重なった場所がほんのりあたたかい。


「ねぇ、汐」

「ん」

「私、こうやって隣で歩くの、好きだよ」

「……私も」


 ほんの少しだけ力を込めて、手を握り直した。

 そのまま二人の歩幅がぴたりと合う。

 音も、呼吸も、静かに揃っていった。



――汐


 秋の風は、夏みたいに騒がしくない。

 静かで、少し切なくて、優しい。

 菜々の横顔を見ながら、私はゆっくり息を吸い込んだ。


「ねぇ、菜々」

「うん?」

「これからも、こうして歩こう」

「……うん、約束」

「約束」


 声に出すと、それだけで胸の奥が温かくなる。

 言葉はまだ少ないけれど、

 手のぬくもりがそれを補ってくれる。


 “恋”という言葉をまだ選べないふたりの、

 小さな約束のかたち。

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