第16話 祭りの余韻、手のぬくもり

第十六章 祭りの灯、手のぬくもり


――菜々


 秋祭りの夜は、昼間よりずっとにぎやかだ。

 提灯の灯りが通りを照らして、焼きとうもろこしの匂いが風に乗る。

 太鼓の音がどこかから響いて、子どもたちの笑い声が重なっていた。


 私は八百屋の前に組んだ屋台で、ひたすら皿を並べていた。

 “秋の潮風”――サワラと野菜のマリネ。

 汐と二人で作った初めての料理。


「菜々、皿足りるか?」

「あと十枚! こっち野菜切るね!」

「頼む!」


 汐の声は、いつもより少しだけ大きい。

 混雑で通りの向こうが見えないほどだ。

 汗を拭う彼女の腕には、仕込みでついた魚の匂いがまだ少し残っている。

 その匂いが、なんだか落ち着く。


「汐ー! 鰆のソース、もう一本!」

「おう!」


 バタバタと動く中で、目が合う瞬間が何度もあった。

 忙しいのに、

 そのたび、胸がすこし跳ねる。



 やっと人の波が一段落したころ、

 私は一息ついて腰を下ろした。

 灯りの下で見る汐の横顔は、少し疲れていて、でも満足そうだった。


「……やったね」

「うん。完売」

「すごいね、私たち」

「魚屋と八百屋のくせにな」

「くせにってなによ」

「褒めてんだよ」

「……そっか」


 目の奥が、じんわりと温かくなった。


「汐」

「ん」

「ありがとうね」

「なにが」

「一緒にやってくれて」

「……当たり前だろ」

「でも、うれしかった」


 風が吹いて、提灯の灯りがゆらゆら揺れた。

 通りのざわめきが、少し遠くなる。


 ふいに、汐の手が動いた。

 私の指先に、何かが触れる。


 最初は、偶然だと思った。

 でも、違った。

 ゆっくりと、確かに――汐が、私の手を取った。



――汐


 屋台の片付けをしていたとき、

 菜々の指が自分の手に当たった。

 冷たい。

 でも、その冷たさの奥に、今日一日分の温度が詰まっている気がした。


 気づいたら、掴んでた。

 いや、掴んでしまった。


 菜々が驚いた顔でこちらを見る。

 提灯の光が瞳に映って、赤い光がゆらめいていた。


「……どうしたの」

「人、多いから」

「もう片付け終わってるけど」

「転ぶな」

「もう……言い訳下手」


 笑われた。

 けど、手を離せなかった。



 指先に、菜々の体温が伝わる。

 それだけで、頭の中が空っぽになる。

 “好き”なんて言葉より、ずっと真っ直ぐに伝わるものがそこにあった。


「汐」

「ん」

「あったかいね」

「おまえのほうは冷たい」

「じゃあ、冷たい方が勝ち」

「勝負じゃねぇ」

「勝った気がする」


 菜々の笑い声が、小さく響く。

 手のひらの中で指が少し動いて、

 絡んだまま、もう一度ぎゅっと握られた。



 提灯の明かりが、二人の影を長く伸ばす。

 通りを吹き抜ける風が、屋台の布を揺らした。

 その音が、まるで遠い波の音みたいに心に響く。


「……汐」

「ん」

「“隣”って、いいね」

「“前”も、悪くねぇ」

「ふふ、ずるい」

「おまえが言ったろ、“前に歩く方向が同じ”って」

「うん」

「だったら、手くらい繋いでもいいだろ」


 菜々が黙って頷いた。

 灯りの下で、二人の指が絡んだまま、

 ほんの少しだけ揺れた。



 夜が深くなっても、通りのざわめきは続いていた。

 でも、私の世界は、菜々の手の中だけで十分だった。



――菜々


 祭りの灯りが少しずつ消えていく。

 けど、手の温もりだけは消えなかった。


 汐が何も言わないまま、ただその手を握り続けてくれる。

 言葉がないのに、全部伝わる。


「……汐」

「ん」

「また来年も、一緒に出そうね」

「当たり前だろ」


 その“当たり前”が、

 私には世界でいちばん嬉しい言葉に聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る