第5話 雨の午後、ビニールの屋根の下で
――菜々
昼前から、ぽつりぽつりと降り始めた雨は、いつの間にか本降りになっていた。
通りを歩く人の足音が、みんな水音に変わる。
私は八百屋の軒先にビニールシートを引っ張り出して、店先の野菜を守る。
「うわ、雨強っ……! トマト逃げろー!」
ビニール越しに風が吹いて、並べていた野菜がガタガタ揺れる。
すると隣の店から声が飛んできた。
「おい、菜々! そっちの端、ちゃんと留めろ!」
「いまやってる!」
「いや、そこじゃなくて――」
ガタガタッ。
あっという間に支柱が倒れかけて、私は慌てて押さえた。
でも片手じゃ届かない。
「っ、汐、ちょっと!」
「だから言ったじゃん!」
気づけば、潮がこっちに飛び込んできていた。
魚屋のエプロンのまま、肩まで濡れてる。
一緒にポールを支えて、ビニールを引き上げた瞬間、
ふたりの手が同じ場所を掴んだ。
雨の音と、息の音が、すぐ耳のそばにあった。
「……ありがと」
「隣だからな。ついで」
「“ついで”って言葉便利に使いすぎ」
「事実だろ」
「はいはい。助かったよ、“ついで”の人」
ふと顔を上げると、潮の頬に雨粒が落ちていた。
そのまま、彼女は何でもないように笑って、
ビニール屋根の角を直しながら言った。
「こういう時、やっぱ八百屋は大変だな」
「そっちだって氷とか溶けるくせに」
「魚は我慢強い」
「野菜だって根性ある!」
「……根性あるトマトってどんなだよ」
「汐に負けないトマト!」
「そんなの腐るの早そう」
「うるさい!」
言い合いながらも、どちらも笑っていた。
雨が少しだけ弱まって、ビニールの上でポタポタと音がリズムを刻む。
⸻
――汐
こうして一緒に軒下に立つと、
昔から何も変わってないな、と思う。
高校の部活帰りに、雨宿りした時も、こんな感じだった。
菜々は少しだけ背が伸びたけど、やっぱり小さくて、
すぐ濡れる髪を気にしてる仕草も、前と同じだ。
「おまえ、また髪に葉っぱついてるぞ」
「え、どこ!?」
「ここ」
指先で、菜々の髪から小さな葉を取る。
その瞬間、菜々がびくっとして顔を赤くする。
「な、なに……!」
「葉っぱ取っただけだろ」
「……っ、そういうの、いきなりするなよ」
「別に変な意味じゃねえ」
「そういうとこだよ!」
「どのとこ?」
「ばかっ」
言葉の意味は分からないけど、
顔を真っ赤にして怒ってる菜々が、妙に可笑しかった。
たぶん、笑ったのが悪かったんだろう。
「なに笑ってんの!」
「いや、なんか……変わんねぇなって」
「変わってるよ、いろいろ!」
「そうか?」
「そうだよ!」
彼女の声が少し震えていた。
雨のせいじゃない気がした。
⸻
――菜々
汐の笑い声が、雨音の中に混ざる。
その音を聞いていると、不思議と落ち着く。
でも同時に、胸の奥が少しざわざわした。
――高校のころ、放課後の体育館で聞いていた声と同じ。
あのころも、こうやって笑ってた。
でも、あのころと違うのは。
いま、私たちは“隣の店”を守る立場になったってこと。
大人になったはずなのに、
気持ちだけは全然追いつかない。
「ねぇ、汐」
「ん?」
「うちのキャベツ、見てって言ってたお客さん、また来てくれた」
「へぇ。リピーターか」
「うん。汐のところのアジが美味しかったって言ってたよ」
「……なんで八百屋経由で魚の感想くるんだよ」
「知らない! でも嬉しいでしょ?」
「まぁな」
その「まぁな」が、
なんか照れ隠しみたいで、
私はちょっとだけ嬉しかった。
⸻
――汐
雨が上がるころ、ビニールの屋根に光が差し込んだ。
濡れた通りがきらきらして、空気が洗われたように澄んでいる。
菜々がホウキを持って、水たまりを掃きながら言う。
「ねぇ汐、明日晴れるかな」
「晴れるよ」
「根拠は?」
「勘」
「適当!」
「魚屋の勘はけっこう当たる」
「じゃあ信じてあげる」
「偉そうだな」
「店長だから」
「私も店長だぞ」
「……あんたは“ついで”の人」
「まだ言ってんのか」
笑い合う声が、通りに響く。
カモメが遠くで鳴いて、猫のトロがのびをする。
いつもの町の風景。
でも、雨の匂いのせいか、今日は少しだけ特別に感じた。
⸻
八百屋と魚屋。
子どもの頃から隣で、喧嘩して、笑って、
それでも毎日、同じ空気を吸って生きている。
“変わらない”ことが、
もしかしたら、いちばん大切なのかもしれない
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