虹※

「虹ってあるじゃん?お前見たことある?」


 鼻歌混じりに話す男に私は寄り添った。


 彼が何を言いたいのかはよくわからないが、行き場のない私を連れ帰ってくれた。

 それだけで良かった。


「あれってさぁ、死んだ魂をあの世に送る為にあるんだよ。」


 私の頭を撫でる手は、大きくて温かくて気持ちが良い。


「魂はさ、虹の橋を渡って天国に行くんだ。男が虹を渡って行く所は、アスガルドっていう良い所らしいよ。」


 柔らかいベッドで彼に抱きしめられて、その声を聞いていた。

 難しい言葉が理解できなくても、彼が何かに憧れている事はわかった。


「虹を渡ったらさ、死んだ父さんにも会えると思わないか?橋なんだからさ。行って帰ってくることだって出来ると思うんだよ。」


 私は微睡みながら何となく頷いた。


「わかってくれるか。」


 彼は嬉しそうに言って、私に頬を擦り寄せた。


「眠る前にシャワーを浴びよう。」


 大きな胸に抱き上げられて、彼の歩くリズムが心地良い。

 湯気が上がるのを、幸せな気持ちで眺めていた。



 ふわふわと漂う湯気に誘われて、流れる水に触れると、思ったよりもずっと熱かった。


「馬鹿だなぁ、そんなに焦らなくても良いだろ。風呂は逃げないよ。」


 慌てて引っ込めた手を彼が笑って撫でた。


「ああ、爪も伸びてるなぁ。切らないと危ない。」


 じっとしてろよ、と彼が私の手を掴む。

 他の人に指を触られるのは少し苦手だったけど、優しい彼を信じた。

 ぷち、ぷち、と小さな音が指先で鳴る。


 後ろから抱きしめられて、緊張しているのか彼の鼓動が高まっているのを感じた。


「……良い子だ。」


 その声の直後。鋭い痛みが走った。


「おっと、切り過ぎた。」


 爪が、半分程になっている。血が滲み出していた。


「まぁ、爪なんかまた伸びるしな。そんな顔するなよ。」


 彼は悪びれた様子もなく、次々に私の爪を短くした。


 痛い。痛い。痛い。


 身を捩ろうとしても、彼の大きな身体にしっかり抱き込まれて逃げられなかった。


「暴れんなって。こうやって抑えれば、血は止まるんだよ。」


 強い力で揉みしだかれて、指は火を灯されたようだった。


「なあ、協力してくれるだろ。虹をさ、渡りたいんだよ。」


 そんなのどうでもいいから、手を離してほしい。


 耐えきれずに反対の手で彼の手に爪を立てると、舌打ちが聞こえた。


 彼の大きな手が、私の抑えた手を引きはがして、ねじる。


 ポキポキと軽い音が鳴って、私の手は動かなくなった。


「今までの奴らはずっと駄目だったんだよ。きっと大事にした命じゃなきゃいけないんだ。お前ならきっと大丈夫だ。」


 彼の豹変と、繰り返す言葉の意味がわからない。


 にじって何。痛い物なの。怖い物なの。

 あの熱い水は何のため。

 今尻尾を掴んだのは何のため。


「僕のこと好きだろう?」


 好き。

 ご飯をくれたから。遊んでくれたから。

 カラスに追われることも、車に轢かれることもなくなったから。


 すきってどういうこと。




「すげぇぇえ!!」


 彼の大きな声が聞こえた。


 透明な扉の向こうに、彼の背中が見える。

 その向こうには、頑丈そうな柵、そのまた向こうに青空。

 黄色や緑、紫、いく筋も並んだ光が差し込んでいた。

 私はテーブルの上で、それを見ていた。


「お前のおかげだよ。行ってくるな……!」


 振り返った彼は優しく微笑んで、柵を乗り越えた。

 くしゃっ、と、片方だけになった耳に濡れたビニール袋のような音が聞こえた。


 ──もう、大丈夫。


 どこからか、仲間の声がした。

 気がつくと、今までどこに隠れていたのか、見渡す限りの仲間達。


 みんな、ひどい怪我をしていた。


 ──行こう。


「どこへいくの。」


 出なかった筈の声が出た。


 ──神さまのところ。


「たてないよ。からだ、なくなっちゃった。」


 ──大丈夫。


 舐めてくれた猫は、少しだけお母さんに似ていた。

 その猫に呼ばれると不思議と立てた。歩けた。


 生まれて初めて、空の上を歩いた。


「おかあさん、おひさま、まぶしいね。」

 

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