第3話:届かなかった手紙

 その月も、満月の夜は静かだった。

 海風がゆるやかに吹き、波の音が港の奥まで響いている。

 紗耶は迷いなく路地を進み、あの灯りを見つけた。

 「カフェ・ルミナ」――今では、それが小さな救いのように感じられる。


 扉を開けると、カウンターの奥で久遠が微笑んだ。

「こんばんは。お帰りなさい」

「……ただいま、って言ってもいいですか?」

「もちろん」


 紗耶は笑い、いつもの席に腰を下ろした。

 温かい香りのコーヒーが、静かに置かれる。

 少しの沈黙のあと、久遠が一枚の封筒を差し出した。

「あなたに、預かっていたものがあります」

「……私に?」

 封筒は少し黄ばんでいて、角が丸くなっていた。

 裏には見覚えのある筆跡。

 “佐伯紗耶さまへ”。


 胸の奥で、鼓動が跳ねた。

「これ……美咲の字です」

「ええ。この店に、彼女が一度だけ来たことがあるんです」

 紗耶は言葉を失った。

「ここに……?」

「“もし彼女が来たら渡してほしい”と。そう言い残して、静かに帰っていきました」


 封を開ける手が震えた。

 中には、淡い便箋が一枚。

 少しだけ滲んだ文字で、こう書かれていた。


紗耶へ。


あのとき、私も言い過ぎた。

でも、あなたの本気がうらやましかったんだ。

夢を追う勇気を持っていたのに、私は怖くて逃げた。

だから、あなたを責めたの。


もしもう一度会えるなら、笑って話したい。

“もう知らない”って言葉を、笑い話にしたい。


満月の夜、きっと会える気がして。

その日まで、あなたの幸せを願ってる。


――美咲


 読み終えた瞬間、紗耶の視界が滲んだ。

 あの日、喧嘩のあとに届かなかった“約束”が、ようやく自分の手に戻ってきたのだ。

 久遠は静かにカップを磨きながら言った。

「手紙というのは、不思議ですね。

 時間も距離も越えて、心だけが今に届く」


「……彼女、ここに来てたんですね」

「ええ。あの日も、満月でした」

 紗耶は封筒を胸に抱きしめた。

「謝りたい。でも、もう叶わない」

「本当にそうでしょうか?」

「……?」

「言葉は、相手がいなくても届くことがあります。

 心から発したものなら、誰かが必ず受け取る」


 窓の外では、雲が流れ、満月の光が差し込んだ。

 便箋の文字が淡く輝いて見える。

 まるで、美咲が微笑んでいるようだった。


 紗耶は立ち上がり、カウンターの隅に置かれた小さなランプの前で深呼吸した。

「……ありがとう、美咲」

 それは祈りにも似た声で、静かに夜へ溶けていった。


 久遠はそっと言った。

「きっと彼女も、今夜は隣の席で微笑んでいますよ」

「……そうですね。そんな気がします」


 帰り道、月の光が海面に揺れていた。

 風が頬を撫で、涙が一粒、光に溶けた。

 ポケットの中の封筒が、体温で少し温かい。

 もう二度と会えないと思っていた友人が、ほんの少し、近くに感じられた。


 夜の港を歩きながら、紗耶は小さく呟いた。

「次の満月も、きっと来よう」

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