第2話:忘れられない約束
満月の夜、紗耶はまた港の道を歩いていた。
先月の出来事が夢だったのかと思うほど、あのカフェの場所は記憶の中でも曖昧だった。
けれど、潮の匂いと月の光に導かれるように、またあの看板が現れた。
——「カフェ・ルミナ」。
窓の向こうに、柔らかな明かりが灯っている。
扉を押すと、鈴が小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
久遠がいつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「今夜も満月ですね」
「ええ。どうぞ、お好きな席へ」
その夜は、先客がいた。
カウンターの端で、青年がノートを開いて何かを書いている。
二十代前半ほどだろうか。黒いパーカーの袖をまくり、指先にインクの染みがあった。
「彼はね、いつもこの時間に来る常連なんです」と久遠が言った。
青年は顔を上げ、少し恥ずかしそうに笑った。
「詩を書いてるんです。といっても、まだ誰にも見せたことないですけど」
紗耶は思わず聞き返した。
「どうしてここで?」
「父が詩人だったんです。去年、亡くなって……」
言葉を切り、青年はノートを閉じた。
「最後に会った日、父は“お前の言葉を聞きたかった”って言ったんです。
でも、僕、何も言えなかった。……そのまま、もう会えなくなった」
紗耶は黙っていた。
その言葉が、自分の後悔と重なった。
久遠がカウンターに静かにコーヒーを置いた。
「“言葉を飲み込む”というのは、人がいちばん苦しむ形の沈黙です。
でもね、思い出している限り、それはまだ届いていないだけなんですよ」
青年はカップを見つめながら、小さく笑った。
「父も、きっとまだ聞いてくれてるのかな」
「ええ。きっと」
その会話を聞きながら、紗耶の胸にひとつの光景が浮かんだ。
——親友の美咲が笑っていた、あの夏の日。
「また明日ね」と言った声が、最後になった。
“もう知らない”と返した自分の声が、今でも耳の奥に残っている。
「言えなかった言葉って、時間が経つと重くなるんですね」
紗耶の呟きに、久遠は頷いた。
「でも、心の中で繰り返すうちは、まだ“終わり”ではありません」
青年は少し考え、ノートを開いた。
そして震えるペン先で、一行書き込んだ。
——『聞いてくれて、ありがとう』。
「これで少し楽になりました」
「きっと、お父さまも同じ言葉を返すでしょう」
久遠の言葉に、青年は静かに笑った。
青年が帰ったあと、店内には二人だけが残った。
窓の外では、波がきらきらと光を反射している。
「あなたも、少し変わりましたね」
久遠の言葉に、紗耶は驚いた。
「そうですか?」
「ええ。前回より、声が穏やかです」
「……たぶん、少しだけ、誰かを許せたから」
紗耶はそう言って、カップを見つめた。
そこには、満月が静かに映っている。
「もし、もう一度会えたら……何を話しますか?」と久遠が尋ねた。
「“ごめんね”より、“ありがとう”を言いたいです」
「それなら、きっと次の満月が、あなたに何かを見せてくれますよ」
帰り際、ドアを閉めた瞬間、風の音とともに鈴の音が遠くへ消えた。
振り返ると、カフェの灯りが波間に揺れている。
それはまるで、誰かの記憶の奥にある小さな灯火のようだった。
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