第2話


目を覚ますと、そこに見慣れない天井があった。


「ああ、そうじゃ」


妾は昨日から、菫子の家に身を寄せているのだった。もっとも、体が回復するまでの仮の住まいだが。そう思いながらカーテンを開け、窓の外の景色を見つめる。

突然、


「イヴちゃん、おはよう!朝ごはん作ったけど、食べるかな?」


という声と共に、菫子がノックもなく元気よく入ってきた。

イヴはフッと笑いながら冗談めかして言った。


「人間界にはノックをするという文化はないのか?全く、無礼な人間じゃ」


菫子の屈託のない笑顔を見ると、またあの胸のざわめきが始まる。


(嫌いではない)


それが、今のイヴの全てだった


「ごめんね、ノックはあるよ!」


菫子はケラケラと笑う。


「逆にイヴちゃんの世界にもノックってあるんだね」


「どちらの文化かは知らぬが、魔界にも人間はおるからのう。そんなことよりも朝食じゃ」


イヴは話を打ち切った。二人は朝食を食べにリビングへと向かう。


食卓には、トーストされた食パン、ベーコンエッグ、そしてアイスコーヒーが並んでいた。

もちろん、どれも見たことがないイヴは、静かに菫子のほうを見つめる。


「これはね、四角いのが食パン。黄色くてお肉が乗ってるのがベーコンエッグ。飲み物はコーヒーって言うんだよ。あの、イヴちゃん、和食と洋食どっちがいいか分からなかったから、とりあえず洋食にしてみたんだけど……」


菫子はフォークを手に、少し不安げに尋ねた。


「ふん、妾に食えぬものはないわ」


イヴはそう言い放ちながらも、内心では警戒していた。牛丼という驚異的な食べ物を知った今、人間界の食事には一切の油断ができない。

イヴはまず、ベーコンエッグを口に運んだ。ふわふわと柔らかい食感に、ベーコンのしっかりとした塩味が口いっぱいに広がる。


「な、なんじゃこれは……!」


牛丼のような爆発力はないが、確かに美味い。そして本能がパンを欲しているのを感じた。勢いのまま、パンをちぎって口に運ぶ。


「……魔王にブリューナクとは、このことじゃったのか!」


「え、なに?もしかして、鬼に金棒みたいな?とにかく気に入ってくれたみたいでよかった。コーヒーもよく合うよ」


そう言われ、イヴはアイスコーヒーを飲んでみる。イヴは理解した。ベーコンエッグを口に入れ、食パンをかじり、最後にコーヒーを流し込む。この一連の動作で、一つの完全な食べ物であると。


「全く、美味じゃった」


「お粗末さまでした」


体いっぱいに満足感が広がる。


「うぬはいつも、このようなものを食しておるのか?」


「え、まあ、牛丼も今日の朝食も、特に特別な料理ではないかな。イヴちゃんの世界では、どんなものを食べてたの?」


「基本は肉じゃ。人間は色々と調理をするらしいが、魔族は魔力を持った魔物の肉を食べ、魔力を潤すことができればよいからのう」


「せっかくなら、調理して美味しい物を食べたい!ってならないの?」


「長く生きておると、そんなことはどうでもよくなる。まあ妾はまだ百七十歳じゃから、まだ若いがな」


イヴはそう言いながら、アイスコーヒーを飲み干した。氷がカランと音を立てる。


「イヴちゃんって百七十歳なの?!」


「そんなに驚くこともなかろう。魔族は基本的に千歳ぐらいまでは生きるんじゃ」


「すごい長生きなんだね」


「妾からすれば、人間が短命なだけじゃ」


その一言で、会話の空気が凍り付いた。菫子は俯いて、テーブルの木目をじっと見つめる。


(しまった。人間どもは、自らの短い寿命を、他者に指摘されると悲しむのだったか……?)


イヴは自分の言葉が失言であったと気づき、反射的に窓の外に視線を逸らした。

このままではいけないと思った菫子は、慌てて話題を変える。


「そ、そうだ!イヴちゃんの服を買いに行こうよ!イヴちゃんすっごく可愛いから、オシャレしないともったいないよ!」


(全く、この人間は騒がしいやつじゃ。だが、嫌ではない――)


イヴはそう心で呟いたが、口には出さない。


「あー、そんなこと、昨夜も申しておったな」


「それじゃあ、早速出かけるよ!イヴちゃん」


「好きにするが良い」


イヴは立ち上がると、すでに玄関に向かっている菫子の背中を追った。

こうして、二人はショッピングモールへと向かった。


ショッピングモールに向かう道中、イヴは見るものすべてに興味を示し、たくさんの質問をしてくれた。信号機や看板、自動販売機といった、人間界に対するイヴの分析は、いちいち面白かった。

イヴとたくさん話せて、菫子はただ嬉しかった。イヴを独り占めしているこの時間が、いつまでも続けばいいのに。菫子はそんなことを考えていた。

そうしているうちに、あっという間にショッピングモールに着いた。徒歩なら三十分はかかる道だが、会話に夢中で全く疲れを感じなかった。


「ここがショッピングモールか!ガラス張りの、変な形の城じゃな!」


菫子は、そのテンプレ的な表現に思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。

イヴは明らかにワクワクしている様子で、


「なにをしておる!さっさと中に入ろうぞ!」


と、菫子を急かした。


「これじゃあ、立場が逆転してるよ、イヴちゃん」


菫子はそう言いながらも、嬉しそうにイヴの腕にしがみついた。その派手な衣装の上からでも伝わるイヴの体温を感じながら、菫子はそっと囁く。


「あのね、イヴちゃん。私たち、すごく目立ってるからね?」


周囲の通行人は、皆一様に、「黒と紫の、豪華絢爛なコスプレ衣装の美少女」と、その衣装にしがみついているごく普通の私服姿の女性を、好奇の目で見ていた。

だが、イヴはそんな視線など気にも留めない。


「ふん。妾が美しいのは当然じゃ。それに、何を恐れる必要がある。妾ほどではないにしろ、うぬも十分美しい見た目をしておるのだから堂々としておればよいのだ」


その予想外の褒め言葉に、菫子の顔が一気に熱くなった。


(な、なんでこんなところで、そんなこと言うのお〜!?)


イヴは胸を張ると、菫子の腕を掴み返し、巨大なガラスの扉をくぐって、ショッピングモールへと、颯爽と踏み込んでいった。

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