ちょろイン魔王様は、OLさんに恋をする。

万策尽太

第1話


「魔王様!しっかりしてください!魔王様!」


聞き慣れた側近、ココの叫び声が聞こえる。


(ああ、妾は政変に遭い、深手を負ったのだったな。)


朦朧とする意識の中、ココが激しく動揺しながらも、必死に叫んでいる。


「魔王様起きてください!起きてなくても聞いてください!今からココは、魔力の全てを使って、私たちを人間界に転送します!」


魔王は、傷の痛みと魔力枯渇のせいで、ココの言葉をうまく理解できない。


「近くに追手が来ています!ココの魔力はもうほとんど残っていません。完璧な転送は無理です!しかし、これを利用します!みんなバラバラの場所に遠くまで飛ぶことで、追跡を断ち切れるはずです!」


ココは意を決した表情で、魔王に訴えかけた。


「とにかく、時間が無いのです!魔王様、人間界では、くれぐれも人間の姿でお過ごしください!魔族の姿は、人間界の法則と反発し、魔力を激しく消費してしまうので、お体や魔力の回復がままなりません!どうかご無事で!」


その言葉を最後に、ココは詠唱を始めた。光が魔王の視界を覆い、強烈な圧迫感とともに転送が行われる。

意識が朦朧としていた魔王には、ココの切実な警告はほとんど耳に入っていなかった。



「はあ、今週も疲れたな〜。早く帰って牛丼食べたい」


白羽菫子(しらは すみれこ)は、金曜日の仕事終わりに、牛丼をテイクアウトするのにハマっている。

今週末は予定もないし、大掃除でもしようか。そんなことを考えながら家路に向かう途中、いつも通る公園に違和感を覚えた。

ベンチのそばに、何か黒いものがうずくまっている。人ではないみたいだけど、生きている。なんだかすごく苦しそうで、つらそうにしている。

今となっては、どうして声をかけたのか自分でもわからない。ただ、あの時は疑問よりも心配が勝り、気づけば自然と声が出ていた。


「あのー、大丈夫ですか?」


菫子は、少し離れたところから声をかけると、


「誰じゃ……貴様は…」


と、静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で問いかけてきた。


「わ、私は白羽菫子、20歳です!あ、あなたが苦しそうだったから、つい声をかけてしまって……ごめんなさい!」


年齢まで口走ってしまったことを、軽く後悔しながら返事を待ったが、相手はただうめくだけだった。思わず介抱しようと近づき、初めてその顔を見た瞬間、息をのんだ。それは、まるで創作物に出てくる魔物そのものだった。


「気安く近寄るな!……妾は、魔王ぞ……」


ほんの一瞬、躊躇した。それでも、「魔王だろうと何だろうと、目の前で苦しんでいる人(魔王?)を放っておけるわけがない」と強く思った。(あの時、あの人が私にそうしたみたいに――)菫子は、相手の言葉を気にも留めず、介抱しようとさらに近づいた。


「…妾に触れるな、と言っている…!その身がどうなっても知らんぞ…!」


そう言いながら、魔王の視線が菫子の手にある何かに向けられた。


「…ん?貴様が持っているそれはなんだ…?それを、寄越せ…!」


魔王の意外な要求に、菫子は一瞬きょとんとした。


「え……牛丼、ですか?どうして……あ、もしかして、お腹が空いてるの?」


警戒心よりも心配が勝り、牛丼を差し出した。

しかし、魔王は牛丼の食べ方が分からないらしく、困惑している。それを見て、菫子は尋ねた。


「魔王さんなら、もしかして魔法で人間の姿になれたりします?その方が、食べやすいと思うんだけど……」


魔王は怪訝な顔で首を傾げた。確かに人間の姿になること自体は、魔界でも幾度となく行ってきた。だが、人間の提案に乗るのは釈然としない。しかし、目の前の牛丼の香りは、抗いがたい魅力を放っている。


「…馬鹿なことを言うでない。このような下らぬ…いや、しかし…」


葛藤の末、魔王は小さく呻いた後、ふっと光に包まれた。

光が収まった場所に立っていたのは、先ほどの恐ろしい魔物とは似ても似つかない、透き通るような肌の美少女だった。艶やかな黒髪は光を反射し、まるで夜空を切り取ったかのよう。そして、その顔立ちからは、神秘的で近寄りがたい雰囲気が漂っている。

そのあまりにも美しい姿に、菫子は、ただ呆然と立ち尽くしていた。息をのむほどに美しく、どこか儚げなその姿に、菫子の心臓は高鳴り、全身が熱を帯びていく。先ほど魔物を目の前にした時に感じた恐怖は、美しい少女を前にした今、完全に消え去っていた。ただ目の前の彼女から目が離せず、この世の全てがこの瞬間のために存在しているかのように思えた。

魔王は、光が収まった後も、自分の手のひらを不思議そうに見つめていた。


「ふむ…これは、どういうことじゃ…」


首を傾げる魔王に、菫子は優しく声をかける。


「魔王さん、どうしましたか?」


「いや…何故だか体が軽くなって、力が満ちていくのを感じる。さっきまで、魔族の姿では、魔力回復どころか、ただ立っているだけで魔力が消費されていたというのに…」


魔王は、自分の体に手を当て、驚きを隠せない様子だった。


「もしかして、人間の姿になったことで、魔力の消費?が抑えられているということですか?」


菫子の問いかけに、魔王は何度か頷く。


「おそらく…いや、間違いなかろう。人間界でのこの姿は、思った以上に妾になじんでおる。おかげで、幾分か体が楽になったわ」


そう言って、魔王は安堵の息を漏らした。その表情は、先ほどの威厳に満ちた魔王のそれではなく、ただひたすらに、安心しきった少女の顔だった。


「なんだかよく分かんないですけど、無理はしちゃダメですよ。まだ牛丼、食べてないんだから」


菫子は、自分のことのように喜んで魔王に微笑みかける。その純粋な優しさに、魔王は少し戸惑いながらも、どこか温かい気持ちになった。


キュン


(なんじゃこの胸のざわめきは。人間の姿になった影響…?いや、なぜこの人間の顔を見ると、こんなにも騒がしいのじゃ…)


ぎゅるるるるー……。


「……っ!」


魔王のお腹が盛大に鳴る。

恥ずかしさで顔を赤くした魔王は、それを隠すように不機嫌な顔で菫子を睨みつけた。


「……そんなことよりも、牛丼とやらを早く食べさせんか。妾の腹が騒がしい」


牛丼を一口、口に入れた瞬間、魔王の表情が一変した。


「なんじゃこれは...あまりにも美味すぎるではないか!」


肉を頬張りながら、魔王は興奮したように早口でまくし立てる。


「この肉は…魔界のいかなる食材にも似ておらぬ!柔らかく、甘く、そしてこの濃い味付けは禁断の魔術か!そして、なによりこの柔らかい粒たち……米とやらは、下界の食文化を根底から支える最高の秘宝に違いない! なんという食べ物じゃ!」


あまりの興奮ぶりに、魔王はほとんど息継ぎをしていなかった。その勢いに圧倒されながらも、菫子は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ、良かった。私の大好きなもの、気に入ってもらえて」


その言葉に、魔王は少しだけ顔を赤らめて、再び牛丼をかき込み始めた。

あっという間に牛丼を平らげた魔王は、今後のことを考えていた。


(空腹はある程度満たされたが、どうしたものかのう)


「魔王さん、もし行く所がないなら私の家に来ない?迷惑だったら無理には言わないんだけど、その、なんて言うか、心配だし!」


菫子は顔を赤らめて恥ずかしそうに言った。それは、かなり勇気を出した告白のように聞こえた。


「そなたは、何故それほどまでに、妾にかまうのじゃ?」


小首をかしげながら問う魔王に、菫子は正直に答える。


「心配なのは本当だよ。実はね、こんなこと言っても迷惑かもしれないけど、魔王さんのこともっと知りたいって思って、仲良くなりたいなって思っちゃったの」


菫子は本当に恥ずかしそうに、しかし力強く言い切った。


キュンキュン


(またじゃ、この胸のざわめき。この温かさ、この人間の眩しいほどの笑顔と、どうして結びつくのじゃ?分からぬ。)


「あのー、魔王さん?どうかした?」


「……いや、なんでもないわい」


イヴは素早く感情を押し殺した。


「わかった。しばらくの間、うぬの家に身を寄せてやる」


「え、本当!?」


「これはあくまで、回復を待つための、一時的な潜伏じゃ。うぬの心配など、断じて理由ではないわい!」


イヴは威張った口調で言い放った。その言葉に、菫子は少しも怯えず、満面の笑みで微笑みかけた。


「うん!わかった、回復のためなんだね。それじゃあ、よろしくね、魔王さん!」


菫子は少しだけイヴの腕を掴むようにして歩き出した。家路を急ぐ菫子の隣で、イヴは慣れない人間の姿で、周囲の景色を警戒するように見つめている。


「そういえば、魔王さん」


「……なんじゃ」


「まだお名前、ちゃんと聞いてなかったね。私は白羽菫子だよ。魔王さんはなんてお名前なの?」


イヴはフンと鼻を鳴らした。


「妾の名はイヴリン・ネザーランド・ルミナリスじゃ。ネザーランド様とでも呼ぶがよい。」


「うん、長いね!」


すぐに屈託のない笑顔で続けた。


「じゃあ、イヴちゃんだね!」


イヴはピタリと足を止めた。腕を掴む菫子の手が、驚きでわずかに震える。


「なっ……!無礼なやつじゃ!誰がイヴちゃんじゃ!この畏れ多くも高貴な妾を、そのような呼び方で呼ぶでない!」


「だめだったかな?」


菫子は不安そうに首を傾げた。その表情に、イヴの胸のざわめきが再び高まる。


(い、いや、ダメではない。この人間の顔を見ると、どうにも怒りが続かぬ……!)


イヴは天を仰ぎ、苛立ちを隠すように叫んだ。


「……えーい、好きに呼べばよい!」


「やった!ありがとう、改めてよろしくね!イヴちゃん!」


満面の笑みで微笑みかけてくる菫子に、イヴは胸をざわつかせながらも応じた。


「ああ、いつまでかはわからぬが、一応よろしくじゃ」


できるだけ表情を崩さないように答えたが、その頬がわずかに緩んでいることには、イヴ自身気づいていないようだった。


「明日はイヴちゃんの服を買いに行こうかな。」


「服?服ならすでに着ておるが」


「一着だけじゃダメだよ!今からイヴちゃんは人間界に住むんだもん」


菫子の言葉に、イヴは初めて自分が一時的に魔王の地位から離れ、「新しい場所で生きる」のだと実感した。


「...ふむ。ならば、人間界の生活とやらを、しっかり妾に教えてみよ」


こうして、魔王イヴリン・ネザーランド・ルミナリスと白羽菫子の奇妙な共同生活が、今、始まったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る