最終章 春、ふたり
春の風が吹いていた。
まだ花は満開ではないけれど、
枝先に薄桃色のつぼみがいくつも開きかけている。
通りを歩く人々の服が軽くなり、
道の端には、雪の名残の代わりに水仙が咲いていた。
私は診療所の看板を出してから、
少しだけ空を見上げた。
冬の間、重たかった空が、
今日はこんなにも高く見える。
(あの日から、もう一か月。)
あの告白の夜。
雪解けの音の中で、
彼女の手を握ったときの感触を、
私は今もはっきり覚えている。
それから私たちは、
特別な約束を交わしたわけではなかった。
ただ、仕事の合間に小さな言葉を交わし、
ときどき同じ景色を見つめていた。
それだけで、
十分だった。
⸻
午後。
診療を終えたあと、
私は屋台のほうへ歩いた。
街の空気がすこし甘い。
花の匂いと出汁の香りが混ざって、
春の音楽のように鼻をくすぐる。
暖簾をくぐると、
瞬がいた。
彼女は白い割烹着の上に、
淡い桜色のスカーフを巻いている。
頬がほんのり赤いのは、
湯気のせいか、それとも。
「先生。」
呼ばれた声がやさしい。
私は自然に笑っていた。
「桜、咲いたね。」
「ええ。
……先生、見に行きませんか?」
彼女は箸を置き、
少し照れくさそうに言った。
「お昼の仕込み、少し抜けても大丈夫?」
「ちゃんと段取りしてあります。」
「ふふ、抜かりないわね。」
屋台を出ると、
風が花びらを一枚運んできた。
それを追いかけるように、
瞬が手を伸ばす。
「先生、ほら。」
指先で花びらを受け取り、
私の掌にそっと置く。
「春の特別便です。」
懐かしいその言葉に、
思わず笑ってしまった。
「今日は、受け取りに来たのよ。」
「じゃあ、お渡しします。」
彼女が微笑む。
その笑顔が、
桜よりもあたたかい色をしていた。
⸻
川沿いの道を、並んで歩いた。
水面には桜の花びらが浮かび、
風に流れていく。
「先生。」
「なに?」
「私、冬が終わるのが怖かったんです。」
「どうして?」
「雪の中の先生が、いちばんきれいだったから。」
一瞬、
胸が痛いほどに熱くなる。
「でも、今は。」
瞬が続けた。
「春になっても、先生がいる。」
私は言葉を失った。
それだけで、涙がこぼれそうになる。
彼女が立ち止まり、
私の方を向いた。
「先生。」
「……なに?」
風がふたりの間を通り抜ける。
花びらが宙を舞い、
頬に触れた。
「私、これからも先生といたいです。」
声は静かで、
けれどまっすぐだった。
私はゆっくりと頷いた。
「私もよ。
これからも、季節が巡っても、
あなたと同じ空気を吸いたい。」
瞬の目が細くなり、
微笑みがこぼれる。
その笑顔が、春の光を映していた。
⸻
夕暮れ。
桜の花が光を帯び、
風の中でゆらゆらと揺れる。
川沿いのベンチに並んで座る。
肩が触れるほど近い。
言葉はもういらなかった。
川の水が、
ゆっくりと流れていく。
その音の中に、
冬の日々の記憶が溶けていく。
「先生。」
「なに?」
「春って、こんなにあたたかかったんですね。」
「ええ。
あなたがいる春は、きっと特別だから。」
彼女が笑う。
私はその横顔を見つめた。
花びらが一枚、
彼女の髪に落ちた。
そっと指先で払うと、
指が彼女の頬に触れる。
その距離のまま、
ふたりの呼吸が重なった。
(ああ、冬が終わる。)
私たちはそのまま、
目を閉じた。
風が吹き、
花びらが二人の肩に舞い降りる。
それはまるで、
春がふたりを包み込むようだった。
⸻
夜になっても、
桜の木々は淡く光を放っていた。
川面に映る花の灯が、
揺れながら遠ざかっていく。
「先生。」
「なに?」
「また、次の春も一緒に。」
「ええ。何度でも。」
手を握る。
その温度は、もう冬のものではなかった。
冬に出会い、
雪の中で惹かれ合い、
春に確かめた恋。
――ふたりの季節は、
これから何度でも巡っていく。
静かな夜風の中で、
桜の香りがやさしく流れていった
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