第28話 雪解け前の告白

三月の初め、

朝の空気がほんの少しだけ緩んだ。

けれど、風の底にはまだ冬が残っている。


診療所の外の通りでは、

残った雪が灰色に変わり、

その上を冷たい水が細く流れていた。


私はいつものようにカルテを閉じ、

白衣を脱いだ。

窓の外の光が少し柔らかい。

春はまだ遠いけれど、

空気の匂いがどこか違っていた。


(そろそろ、あの子に会いたい。)


思ってしまった瞬間、

胸の奥がくすぐったくなる。

誰かを想って季節の変化を感じるなんて、

いつ以来だろう。



午後。

診療所のドアを叩く音がした。

あの軽やかなノックを聞くだけで、

心臓が跳ねる。


「先生、こんにちは。」


瞬だった。

白い息を吐きながら、

手に小さな籠を持っている。


「春の便り、持ってきました。」

「もう?」

「少し早いけど、待てなくて。」


籠の中には、

菜の花、蕗の薹、そして薄切りの桜鯛。

冬と春が混ざったような彩りだった。


「試作?」

「はい。

 “雪解け御膳”。」


彼女が照れたように笑う。

その笑顔を見て、

息をのんだ。


(もう、隠せない。)


胸の奥で何かがほどけていく。


「……ちょっと、外に出ましょうか。」


私はマフラーを取り、

彼女を連れて裏の小さな公園へ向かった。



池の周りにはまだ雪が残っていた。

でも、氷の表面の一部が少しずつ溶け、

その下を水が流れている。


「音、聞こえます?」

瞬が言った。

「雪の下を水が通る音。春が来る音です。」


私はその音を耳で追った。

小さく、でも確かに生きている音。


「あなたは、いつも“今”の中に春を見つけるのね。」

「先生は?」

「私は……季節が変わるのを、

 誰かに教えてもらわないと気づけないみたい。」


そう言うと、

瞬が少しだけ笑った。


「じゃあ、これからは私が教えます。」

「毎年?」

「もちろん。」


ふたりのあいだに沈黙が落ちる。

風が吹き、

マフラーの端が彼女の肩に触れた。

その小さな触れ合いが、

思いのほか大きな音で心に響いた。


「先生。」

「なに?」

「前から言いたいことがありました。」


私は息をのんだ。

瞬が、

真っすぐな目でこちらを見つめている。


「最初は、憧れでした。

 強くて優しくて、

 手の届かない人だと思ってました。」


風が、彼女の髪を揺らす。

声は少し震えていた。


「でも、気づいたら――

 先生のことを考えると、

 料理の味まで変わるようになってました。

 それって、きっと……恋なんです。」


私は何も言えなかった。

指先がかすかに震え、

言葉を探すようにマフラーを握った。


「怒ってますか?」

瞬の声が小さくなる。


「怒るわけ、ないじゃない。」


そう言って、

私は一歩近づいた。

雪の上で、

ふたりの影が重なる。


「あなたが私に春を教えてくれた。

 それがどんなにうれしかったか、

 きっとあなたにはまだわからない。」


瞬が息をのむ。


私は手袋を外して、

彼女の手を取った。


冷たい。

けれど、

それを包む自分の手は、

驚くほど温かかった。


「……私もね、

 ずっと迷ってたの。」


「先生が?」


「こんな感情、

 年齢のせいにしたり、

 過去のせいにしたりして、

 何度もごまかしてきた。

 でも、もう無理みたい。」


瞬がゆっくりと笑った。

涙が光って見えた。


「私、待ってていいですか?」

「待たせないわ。」


ふたりの指が、

雪の上でしっかりと絡んだ。


春の風が、

遠くの枝を揺らす。

その音は、まるでふたりの約束の合図のようだった。


「先生。」

「なに?」

「また“特別便”を届けます。」

「じゃあ、今度は私も用意する。」


瞬が少し首を傾げて笑う。

その笑顔に、

やっと素直に笑い返せた。


――ああ、これが恋の終わりじゃなくて、

  始まりなんだ。


雪解けの音が少し大きくなる。

ふたりの影が重なり、

そしてゆっくりと溶けていく。


冬が終わる。

けれど、

この温度はきっと、

春よりも確かに残る。

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