第27話 朝の余韻

朝の光はやわらかく、

雪の名残を金色に染めていた。


診療所の窓から差し込むその光が、

木の机の上を静かに照らしている。

昨夜、瞬が置いていった小さな土鍋。

洗ったはずなのに、

ほんのりと出汁の香りがまだ残っていた。


私は手を止めて、

その香りを吸い込んだ。


――あの子の、手の温度。


火にかけていた時間よりも短いはずの一瞬が、

こんなにも長く胸に残るなんて。

頬に、

彼女の指の感触がまだ薄く残っている気がした。


私は白衣を羽織り、

鏡の前に立つ。

映る自分は、いつもと変わらない顔。

でも、どこか違って見えた。


(あの夜を、夢にはできない。)


指先で唇をそっと触れる。

冷たいのに、

記憶の中ではまだ温かい。

あの柔らかい感触。

あれが恋の証拠だとしたら、

もう後戻りはできない。



午前の外来が始まっても、

心はどこか浮いていた。


患者の声、看護師の足音、

紙をめくる音。

そのすべてが少し遠くで響いているように感じる。


休憩時間。

待合室の隅のストーブに手をかざしていると、

小さな包みが目に入った。


白い布で丁寧に包まれたそれは、

昨夜、瞬が使っていた“布袋”。

鍋を運んできたときの、あの包み。


中には、

折り畳まれた紙切れが入っていた。


「先生の好きな匂い、また作ります。

でも今度は、春の香りで。」

— 瞬


文字はまっすぐで、

少しだけインクが滲んでいた。

たぶん、あの夜の帰りに書いたのだろう。


「春……。」


声に出した瞬間、

胸の奥が静かに震えた。

冬の終わりの約束。

それだけの言葉なのに、

こんなにもあたたかい。



一方その頃、

屋台の裏で、

瞬は包丁を研いでいた。


金属の音が響くたびに、

昨夜の情景が蘇る。

あのときの沈黙。

触れた手の重なり。

そして――唇。


「……先生。」


声に出すと、

息が白くなった。


誰にも聞かれない場所で、

名前を呼ぶことが、

こんなにも甘い罪になるなんて。


私は研ぎ石の上に包丁を置き、

指先を見つめた。


あの人が私の指を取ったとき、

世界が静かになった。

音も風も、時間さえ止まったように。


恋は、

激しく燃えるものだと思っていた。

でも、

本当は違う。


恋は、

静かに、確かに、

人の中を温めていくものだった。


「春の香り……か。」


私は呟いて、

湯を沸かした。

出汁の鍋に、

ほんの少しだけ山椒の葉を落とす。


香りが広がる。

それはまだ冬の匂いの中で、

春を予感させる小さな息吹だった。



夕方、

空が淡く朱に染まり始める。

診療所の窓から見える景色は、

昨日と同じようで少し違っていた。


私はふと、

窓辺のガラスに映る自分の顔を見た。

頬が少しだけ赤い。

心臓の鼓動が、

まだ静まらない。


(あの子は今、何をしているんだろう。)


その思いが浮かぶたびに、

世界が少しだけ明るくなる。


私の中に、

“誰かを想う”という灯がともってしまった。


もう医者でも、

年上でも、

女性でもなく――

ただの「ひとりの人間」として、

あの子の笑顔を思い出す。


「また会いたい。」


誰にも聞こえない声で呟いた。

窓の外で、

風がやさしく木々を揺らす。

その音が、まるで返事のように響いた。


私は机に向かい、

カルテをめくる。

でも、視線はすぐに窓へと戻る。


冬の終わりの光が、

街の雪を静かに溶かしていく。

あの子が言っていた――

「春の香り」。


それがどんな匂いか、

私はもう知っている気がした。



夜。

窓を閉める前、

空を見上げた。


星が一つ、

ゆっくりと滲んでいく。


(次は、春の便りが届くころに。)


私はその光を見つめながら、

心の中でそっと願った。


触れた唇の記憶は、

まだ雪のように溶けずに残っている。

でもそれでいい。


――冬が終わるころ、

  あの子にもう一度、会えるのなら。


窓を閉じると、

部屋の中は湯の香りで満たされた。

それは、あの夜の続きの匂いだった。

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