第26話 特別便の夜

夜風がやわらかくなった。

雪はやみ、道の端には溶け残った白が小さく光っている。

街灯の下で、

湯気のような霧がゆっくりと流れていた。


診療所の時計が八時を過ぎた頃、

扉の向こうから控えめなノックの音がした。


(来た。)


心の奥で、はっきりとその鼓動を感じる。


「どうぞ。」


扉を開けると、

瞬が立っていた。


コートの肩にはまだ雪の粒。

両手に包んだ布袋の中から、

ふわりと温かな匂いが漂ってくる。


「先生。特別便です。」


いつもの冗談交じりの言い方なのに、

声のトーンは少しだけ静かだった。

私は思わず微笑む。


「寒かったでしょう。」

「……でも、早く来たくて。」


瞬は袋を開けた。

中には陶器の小鉢が二つ、

そして小さな土鍋。


「今夜は、“雪見鍋”です。」


鍋の蓋を開けると、

中には白い鱈と大根、

柚子の皮がひとかけ浮かんでいた。

湯気が立ちのぼり、

部屋の冷気をやわらげていく。


「……美味しそう。」

「先生の手が冷たくなってると思って。」


彼女の言葉に、

胸の奥が小さく波打った。


「優しい子ね。」

「優しいのは、先生です。」


ふたりは並んで椅子に座り、

鍋を分け合う。


湯気の向こうで、

瞬の睫毛に光が宿っている。

まるで雪がそこに降りたように見えた。


「こうして食べてると、

 なんだか昔から知ってた気がします。」


瞬がぽつりと言う。

「先生といる時間って、

 季節の中でいちばん静かな瞬間みたいで。」


私は湯呑みを置き、

少し笑った。

「詩人みたいね。」

「料理人です。」

「同じことよ。

 言葉でなく味で人を動かすのは詩と似てるわ。」


瞬が、少し照れたように笑った。


静かな時間が流れる。

鍋の中の出汁が、

ゆっくりと泡を立てて踊る。

雪の夜の残り香のように、

温かさが部屋に満ちていく。


「先生。」

「なに?」

「もう少し、近くに行ってもいいですか。」


その声は小さくて、

でも確かに響いた。


私は返事をしないまま、

瞬が一歩近づくのを見つめた。


距離が縮まる。

息が触れ合う。

指先が、机の上でそっと重なる。


瞬の指は少し冷たくて、

それでも確かな熱を持っていた。


「……あったかい。」

「先生のせいです。」


笑いながら、

彼女の指が少しだけ動く。

それに呼応するように、

私も力を抜いた。


外では、

風が小さく鳴っている。

窓を叩く雪の粒が、

まるで時間を止める合図みたいに。


瞬が、ゆっくりと私を見つめた。

瞳の奥に湯気の灯が揺れている。

その視線に息をのむ。


(また、あの距離だ。)


触れそうで、触れない距離。

息が混じる。

心臓の音が、ふたりの間で同じリズムを打つ。


「先生。」

「……なに?」

「こうしてると、何も言えなくなります。」

「言わなくていいわ。」


そう言った瞬間、

彼女が小さく笑って、

私の頬に手を伸ばした。


指先が、髪をよける。

そのまま、顔がゆっくりと近づく。


雪が窓を叩く音が遠のいた。

世界が、息だけになる。


触れたのは、

ほんの一瞬。

けれど、

その一瞬が永遠みたいに長かった。


唇が離れる。

湯気の中で、

お互いの瞳に小さく息が映っていた。


「……これも、特別便です。」


瞬が、少し震える声で言った。


私は何も言えず、

ただ笑った。

涙が出そうなくらい、

やさしい笑いだった。


「受け取りました。」


そう言うと、

彼女は安心したように頷き、

そのまま肩を預けてきた。


冬の夜の静けさの中で、

ふたりの影が重なる。


鍋の火はもう弱く、

それでもまだ、

白い湯気が天井にゆらゆらと昇っていた。



外に出ると、

空には星が少しだけ見えていた。

雪のにおい、

冷たい風、

そしてまだ頬に残る温度。


あの瞬間のぬくもりは、

もう消えない。


私は空を見上げ、

小さく息を吐いた。


「……ありがとう、特別便。」


その言葉が夜に溶け、

白い息が星に混ざって消えた

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