第25話 雪の朝

朝、目が覚めると世界が静かだった。

窓を開けると、夜のあいだに降り積もった雪が屋根や道を薄く覆い、空気の匂いまで透明になっている。頬に触れる冷たさは鋭いのに、胸の奥は不思議と温かかった。昨夜の余熱がまだどこかに残っている。


「……行こう。」


私は白いマフラーを巻き、診療所に向かう道をゆっくり歩いた。足もとで雪が小さく鳴る。その音に合わせるみたいに鼓動が整っていく。角を曲がると、通りの端で湯気が立っていた。見慣れた小さな屋台。暖簾が、雪明かりの朝に薄く揺れている。


「先生。」


声に振り向くと、瞬がいた。紺のコートの襟に雪片(せっぺん)を少しだけ乗せたまま、両手で湯気の立つ紙コップを二つ持っている。目が合った瞬間、胸の奥の温度が上がった。


「おはよう。早いのね。」

「眠れなくて。……これ、しょうが湯。先生に。」


差し出された湯気は、夜の続きのようにやわらかい。指が触れる。昨日の足湯よりも、もう少し直接的な温度だった。


「ありがとう。」


紙コップ越しに伝わる温度が、指先から脈へ、脈から胸へと静かに移っていく。私の視線がそのまま瞬の指に吸い寄せられているのを、彼女も気づいているのかもしれない。ふと、瞬が微笑んだ。


「先生、雪、好きですか?」

「ええ。音がやさしくなるから。」

「じゃあ、今日の街は先生向きだ。」


彼女の何気ない言葉が、雪の光みたいに閃いて消える。私は紙コップを両手で包み込み、深く息を吸った。生姜の香りの奥に、柚子の皮がほんの少し忍ばせてある。あの子らしい。


「診療所まで、送ってもらえる?」

「もちろん。」


並んで歩き出す。足跡が二本の線になって白い道に刻まれる。通りの先、商店のシャッターを上げる音が遠くに微かに響く。世界がまだ起ききらない間の、やわらかい余白。


「昨日は、ありがとう。」

「私の方こそ。……楽しかったです。」

「夢みたいだったわ。」

「夢、じゃないですよ。」


瞬の声が低く落ちる。胸が少しだけ痛む。昨夜、湯気の向こうで触れた指先の確かさが、今も指の腹に残っている。


診療所の前に着く。玄関先の雪を、竹箒で掃いておいた大家さんが気づいて手を振った。私は軽く会釈を返し、鍵を回す。ふいに、背中で瞬の息が小さく吸い込まれる気配がした。


「先生。」

「なに?」

「……今日の夜、屋台、早めに閉めます。」

「休むの?」

「いえ。先生に、温かいものを持っていきたい。」

「配達サービスが始まったのね。」

「特別便です。」


言葉にしてしまえばただの冗談。それでも、扉のガラス越しに見る彼女の頬は薄く紅く、瞳は雪の朝より澄んでいた。私は鍵を開けたまま、ふと振り返る。


「瞬。」

「はい。」

「手。」


差し出された彼女の手に、自分の手袋を片方だけそっと被せた。驚いた顔。子どもみたいに目を丸くして、少ししてから笑う。


「先生が片手、寒くなっちゃう。」

「診療所はあったかいから。」

「じゃあ、返しに来ます。夜、特別便で。」


手袋の中の彼女の指が、ほんの少し動いた。布越しの感触なのに、皮膚の温度まで想像できるほど近い。私はそこで、言葉をひとつ飲み込む。――好き。

簡単な言葉ほど、いちばん難しい。


午前の診療は、雪のせいか思ったより静かだった。カルテをめくる手がふいに止まるたび、片手の指先だけが少し冷たく、そして心地よかった。受付のベルが鳴るたびに、玄関に意識が向く。来るわけがないと自分に言い聞かせながら、それでも耳が勝手に期待する。


昼過ぎ、窓の外の雪が光を帯び始めたころ、扉が小さく開いた。


「失礼します。」


瞬ではなかった。近所の配達員が荷物を持ってくる。胸の奥で、何かが音もなく沈む。そんな自分をおかしく思いながらサインを終え、湯を沸かす。湯気の立ち上る形が、昨夜の足湯に似ていて、思わず指先を握る癖が出る。


(待っている――)


自分がそんな時間の使い方をする人間だと、いつからだろう。待つことは苦手だった。待つ間に人は弱くなると知っていたから。けれど、今は少し違う。弱くなる代わりに、柔らかくなっていく。雪に濡れた木みたいに。


夕方、雪はやんだ。冷えは強くなったのに、空はどこか明るい。診療所の灯りを落としかけたとき、扉の向こうで影が揺れた。


「先生。」


瞬だった。両手に包んだ木の弁当箱から、湯気が細くのぼっている。頬は赤く、鼻先は少し白い。片手には、私の手袋。


「特別便です。……返却も。」


差し出された手袋を受け取りながら、私は笑ってしまう。きちんと乾いて、糸のほつれまで整えてある。真面目な子。愛しい、と思ってしまいそうになって、慌てて言葉を探す。


「寒かったでしょう。」

「でも、心はあったかいです。」


言いながら、彼女は弁当箱の紐を解いた。立ちのぼる香り――生姜と味噌、それからほのかな柚子。湯気の向こうで、瞬が少し照れた顔をしている。


「白味噌仕立ての根菜の汁と、小さなおにぎり。雪の夜は、これがいちばん効きます。」


「効く?」

「体にも、心にも。」


木机の上に二人で並んで座り、弁当箱を広げる。器を持つ私の指先を、瞬が一瞬だけ見た。何も言わないのに、そっと自分の弁で湯を足してくれる。その仕草がやさしすぎて、胸の奥が痛い。


「……今日、雪の朝にね。」

「はい。」

「あなたが“夢じゃない”って言ったとき、本当にそうだと思ったの。夢の方が楽なときもあるのに、現実のほうがやさしいことがある。」


瞬は箸を止め、まっすぐこちらを見た。

「私にとっては、先生が“現実のやさしさ”です。」


言葉が部屋の温度になっていく。私は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。白い息は出ないのに、胸の中では雪明かりがまだ灯っている。


「瞬。」

「はい。」

「手、見せて。」


彼女の右手を取る。前に縫った小さな傷跡は、細い白の線になっていた。私はその上を指でやさしくなぞる。触れるか触れないかの距離。瞬がかすかに息を呑む。


「……治ってるわね。」

「先生に、触ってほしくて来たのかもしれない。」

「診療外よ。」

「わかってます。」


笑い合う。けれど笑いの奥で、何かが音もなく合わさっていく。指を離す前、私はほんの一瞬、力をこめた。――離れたくない、と体のどこかが言ったから。


外で風が鳴った。雪はもう降っていない。扉のガラスに私たちの影が重なって、少し揺れて、また離れる。離れて、また近づく。呼吸みたいに。


「また約束、してもいい?」と瞬が言う。

「ええ。今度は私からも。」


そう答えながら、自分でも驚くほど静かだった。怖さは残っている。年齢も、立場も、世間の目も消えない。けれど、それでも手を伸ばすことを、今夜は自分に許していい気がした。


「次は――雪が解ける前に。」

「はい。溶ける前に。」


弁当箱を閉じる音が小さく響く。木の香りと味噌の香りが、診療所の白い部屋に長く残った。瞬が立ち上がり、扉の前で振り返る。


「先生。」

「なに?」

「今、ちゃんと現実ですよ。」


私は頷いた。

「ええ。だから、忘れない。」


扉が開く。冷たい空気が一瞬だけ流れ込み、そしてすぐに閉じる。残された静けさの中で、私は自分の手袋を握りしめた。布のぬくもりの向こうに、指の記憶がはっきりと残っている。


雪の朝から始まった一日は、夜になっても白くやわらかい。

――この光の中なら、私はきっと、もう隠れない。

そう思いながら、私は机の灯りをひとつ消した

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