第24話 湯のあと

部屋に戻ると、

外はもうすっかり暗くなっていた。


旅館の廊下を歩くたびに、

板張りの床がぎしりと鳴る。

湯の香りがまだ髪に残っていて、

少し湿った空気が肌にまとわりつく。


私は窓を少し開け、

外の冷たい空気を吸い込んだ。

遠くで湯の湧く音がする。

どこかの部屋から、

小さな笑い声が漏れていた。


――あの子も、

 もう帰ったころかしら。


そう思うだけで、

胸の奥が静かに疼く。


足湯の縁で触れた手の温度。

頬をかすめた髪。

湯気の向こうで見た、

あの真っ直ぐな目。


一つひとつの記憶が、

まるで熱を持っているように

消えない。


「……ほんとうに、ずるい子。」


口に出してみると、

思いのほか声が震えた。

あの子は、

何も計算しない。

まっすぐで、真剣で、

それでいて危ういほど無垢だ。


私なんかより、

ずっと強いかもしれない。



湯を張った小さな檜風呂に入る。

湯気が立ちのぼり、

灯りが柔らかく反射する。


湯の中に指を沈めると、

その感触が一瞬、

彼女の手の温度と重なった。


(こんなふうに思い出すなんて。)


医者として、

私はいつも冷静でなければならなかった。

患者の痛みに寄り添っても、

心までは乱さない。

そうやって、

自分を守ってきた。


だけど、

あの子の笑顔は、

その壁をあっけなく壊していった。


「先生の手、あったかいですね。」


耳の奥で、

あの声がまた蘇る。

湯の中で拳を握る。


(だめね……)


思い出すたびに、

胸がきゅうっと締めつけられる。

恋なんて、

もうしないと思っていた。


同僚を失ってから――

あの人の手を握っても、

二度と返してもらえなかったあの日から、

私は“誰かを想う”という行為を

自分の中から消してしまった。


だから、

この感情の名前を思い出せない。


“恋”だと呼ぶには、

怖すぎる。

でも、

“憧れ”ではもう済まされない。


私は浴槽の縁に頭を預け、

目を閉じた。


思い浮かぶのは、

彼女の声。

彼女の指。

そして――あの眼差し。


(私を見てくれるのは、

 優しさなの?

 それとも、もっと別のもの?)


湯が少し冷めてきた。

その温度の変化が、

まるで恋の余熱のようで、

切なくなった。



寝室の明かりを落とし、

布団に入る。


外では、

雪が静かに降り始めていた。

風の音に混じって、

どこか遠くで湯の流れる音が聞こえる。


私は枕の端を握った。

指先にまだ、

彼女の温もりが残っている気がする。


(もし、あの子が年上だったら。)

(もし、同性じゃなかったら。)


そんな“もし”を

いくつも並べてみる。

けれど結局、

そのどれもいらなかった。


――彼女だから、

  私の心は動いた。


それだけのことだった。


布団の中で息を潜める。

窓の外の雪が、

街灯の下で静かに舞っている。

その光景があまりにも美しくて、

涙が出そうになった。


「瞬……。」


名前を呼んだ。

小さく、

まるで吐息のように。


部屋の中には、

湯の香りと冬の夜の静けさしかない。

それなのに、

呼んだ名前が空気に溶けて、

まだそこに残っているような気がした。


私は自分の胸に手を当てた。


(この鼓動が、

 誰かの名前に反応してる。)


まるで病のように、

理由もなく速くなる。


医者としての私なら、

この症状に“恋”という診断をつける。

けれど今の私は、

ただの女。


恋を知らなかった女が、

今さらこんなふうに熱を出すなんて。



窓の外、

雪が積もりはじめた。

音のない世界。


その中で、

私は小さく息を吐いた。


「また会いたい。」


そう言葉にした瞬間、

胸が少し軽くなった。


もう隠せないのだろう。

この気持ちは、

きっと次に会うとき、

もう顔に出てしまう。


でも、それでいい。


私は、

恋を知らなかった冬を終わらせたいと思った。


灯りを消す。

真っ暗な部屋の中で、

まだ湯の香りと、

彼女の笑顔が残っていた。


瞼を閉じると、

まぶたの裏で彼女が笑った。


その笑顔に触れようとして、

指を伸ばす。


届かないのに、

それでも――

指先は確かに温かかった。

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