番外編 灯りの残る夜
診療所を閉めると、
外はすっかり夜の色をしていた。
街灯の下に、
雪の名残もなく、
代わりに舗道の水たまりが星のように光っている。
私はカギを回しながら、
背後の気配に気づいた。
「綾ちゃん。」
振り向くと、
瞬が立っていた。
風に揺れる髪。
頬が少し赤いのは、寒さのせいか、それとも。
「今日も遅くまでお疲れさま。」
「ありがとう。あなたもね。」
ふたりのあいだを夜風が通り抜け、
遠くで犬の声が小さく響いた。
「帰り?」
「うん。……寄ってもいい?」
「もちろん。」
⸻
小さな部屋に入ると、
湯気のようなあたたかさがゆっくり広がった。
私はお湯を沸かし、
瞬は何も言わずコートを脱いだ。
診療所の灯りがやわらかく彼女を照らす。
その姿が、どこか儚く見えて息を呑んだ。
「……どうかした?」
「ううん。」
「ほんと?」
少し笑ってごまかすと、
瞬が湯呑みを手に取った。
「ねえ、綾ちゃん。」
「なに?」
「こうしてると、冬が終わった気がします。」
「春の匂いがするわね。」
「うん。でも……まだ少し寒い。」
そう言って、
瞬が私の隣に座った。
距離が近づき、
肩が触れた。
「こうしてると、あたたかい。」
「私も。」
湯気が二人のあいだで揺れ、
その向こうで彼女が微笑んだ。
⸻
しばらく他愛もない話をして、
時間の感覚がなくなっていく。
時計の針の音だけが、
部屋の空気をゆっくり刻んでいた。
やがて、瞬が小さな声で言った。
「……帰るの、やめていい?」
私は少しだけ息を止めた。
「どうしたの?」
「なんか、今夜は帰りたくない。
外の風の音が、寂しく聞こえるから。」
その言葉はあまりに素直で、
胸の奥に静かに落ちた。
「……いいわ。
ここにいなさい。」
瞬が顔を上げる。
驚いたような、
でもどこか安心した顔。
「いいの?」
「ええ。」
その一言のあと、
もう何も言葉はいらなかった。
⸻
灯りを少し落とす。
部屋の空気がやわらかく変わる。
窓の外では風が鳴り、
白いカーテンがゆっくり揺れている。
瞬が私の肩に頭を預けた。
髪が頬に触れる。
その温度が思ったより高くて、
息を呑む。
「綾ちゃん。」
「なに?」
「……こうしてると、落ち着く。」
私は微笑み、
彼女の髪をそっと撫でた。
「それなら、少しの間だけね。」
「うん。少しの間。」
でも、その“少し”は、
どれほど長い時間だったのだろう。
灯りの残る部屋で、
言葉も、呼吸も、
次第に同じリズムを刻んでいく。
夜の音が遠くに薄れていく。
風が止まり、
外の世界が静まり返る。
ただ、
彼女の呼吸の音だけが、
すぐそばで穏やかに響いていた。
私はその音を聞きながら、
そっと瞼を閉じた。
ゆっくりと手を伸ばし、
彼女の指を探す。
指先が触れ合い、
やさしく重なった。
その瞬間、
灯りがひとつだけ揺れ、
やがて静かに消えた。
⸻
朝。
窓の外では、
夜の名残を残した光が滲んでいた。
白いカーテンの向こうで、
鳥の声が小さく響く。
私は目を覚まし、
隣にいる彼女の寝顔を見つめた。
穏やかで、あたたかくて、
少しだけ夢を見ているような顔。
頬にかかる髪を指でよけると、
瞬が小さく息を動かした。
「……おはよう。」
「おはよう。」
その声が、
春のはじまりの合図のように聞こえた。
「昨日は、眠れた?」
「綾ちゃんの匂いで、すぐ眠くなった。」
私は笑いながら、
指先で彼女の髪を撫でた。
「じゃあ、今日はあなたの番ね。」
「なにが?」
「私を眠らせて。」
瞬が照れくさそうに笑い、
「じゃあ、また夜に。」と囁いた。
朝の光が差し込む。
その中で、
ふたりの影が寄り添っていた。
――春は、もうすぐそこまで来ている。
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