第20話 指先の温度
包丁が指をかすめた瞬間、
鮮やかな赤が光った。
一秒遅れて、
鋭い痛みが走る。
瞬は息を飲み、慌てて蛇口をひねった。
水の冷たさで傷口がじんじんとしびれる。
(ああ……やっちゃった。)
忙しさにかまけて、
集中が途切れていた。
小さな切り傷。
それでも利き手の指は料理人にとって命だ。
包帯を巻こうとしたけれど、
手が震えてうまく結べない。
思わず、
頭の中に浮かんだのは、
あの人の顔だった。
「……先生。」
ためらいながらも、
気づけば診療所へ向かっていた。
⸻
夕暮れ。
診療所のガラス戸を開けると、
消毒液の匂いと、淡い照明の光が迎えてくれた。
「すみません……。」
顔を上げた綾が、
少し驚いた表情を見せた。
ほんの数秒。
それが、どれほど長く感じたか。
「瞬……どうしたの?」
「……包丁で、少し。」
綾はため息をついて立ち上がる。
「もう、あなたって子は。」
その声が優しくて、
怒られているのに、
心の奥が少し温かくなった。
椅子に座らされ、
手を差し出す。
指先をつかまれると、
心臓が跳ねた。
「動かないで。深くはないけど、少し縫わないと。」
「……はい。」
綾の指が、
包帯をほどき、ガーゼで血を拭う。
消毒液がしみて、思わず息を呑むと、
彼女の声がすぐそばで囁いた。
「痛い?」
「……少しだけ。」
「我慢して。」
声が近い。
指先を通して、
彼女の手の体温が伝わる。
不思議と、
痛みよりも鼓動のほうが強く感じた。
「久しぶりね。」
「……はい。」
「元気にしてた?」
「先生が来ないから、ちょっとさびしかったです。」
綾の手が、ぴたりと止まった。
数秒の沈黙。
それから、
小さく息をつく。
「……あなたは、そういうことを簡単に言うのね。」
「簡単じゃないです。」
「でも、言ってはいけない言葉よ。」
「どうして?」
「私たちは――」
そこまで言いかけて、
綾は言葉を飲み込んだ。
彼女の瞳の奥に、
わずかな揺らぎが見えた。
瞬は、
その目を見つめたまま言った。
「ねえ、先生。」
「なに?」
「人を治すことと、
誰かを想うことって、
同じくらい優しいことですよね。」
綾は、
包帯を巻く手を止めた。
唇がかすかに震えていた。
「……優しさだけじゃ、救えないのよ。」
「でも、優しさがなければ、
誰も救えないでしょう?」
ふたりの視線が重なった。
綾の指が、
まだ包帯の上を押さえたまま。
その指先の温度が、
静かに伝わってくる。
外では風が鳴っていた。
冬の匂いを運ぶ風。
窓の外の銀杏の葉が、
さらりと音を立てて散っていく。
「これで終わり。」
綾が包帯を結びながら言った。
「無理はしないで。……手は、料理人の命でしょ。」
「はい。」
「それと……」
言いかけて、
綾は一度目を伏せた。
けれどすぐ、
少しだけ笑った。
「もう少し、会いに来てもいいわよ。」
瞬は驚いた顔をして、
それから小さく笑った。
「じゃあ、怪我しなくても行っていいですか?」
「ダメよ。診察じゃないと困る。」
「そっか……でも、
今の“困る”の言い方、
優しかったです。」
綾の頬がわずかに紅くなった。
消毒液の匂いに混じって、
どこか花の香りがした。
沈黙が降りる。
窓の外の風が、
遠くで金木犀の残り香を運んできた。
瞬は立ち上がり、
包帯を巻いた指を見つめながら微笑んだ。
「先生、ありがとう。」
「ええ。……気をつけて帰るのよ。」
扉を開けると、
冷たい空気が頬をなでた。
振り返ると、
綾がまだこちらを見ていた。
光に照らされた横顔は、
どこか寂しげで、
それでいて温かかった。
(もう少しで、触れてしまいそうだった。)
そう思いながら、
瞬は静かに歩き出した。
夜の風が指先を撫でる。
包帯の下には、
まだ微かな熱が残っていた。
それは、
彼女の手の温度。
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