第21話 ぬるむ午後

秋が終わり、

空気が少しだけ冬の匂いをまとい始めた頃。


診療所の入り口でドアベルが鳴るたびに、

綾の胸は少しだけ高鳴るようになっていた。


「こんにちは、先生。」


いつもの声。

瞬が笑顔で立っていた。

手には包帯、けれどもうすっかり白く清潔なまま。


「また経過を見せに来たの?」

「はい。ちゃんと通わないと怒られそうで。」

「怒られたいの?」

「……先生になら、少し。」


からかうように言ったのに、

綾の胸の奥でなにかが弾けた。

咳払いをして、

机の上の消毒綿を取る。


「もう傷は治ってるわ。」

「でも、まだ先生の“お墨付き”がほしいんです。」

「あなた、それを言い訳にして来てるでしょ。」

「バレてました?」


笑いながら、瞬は少し俯いた。

その頬が、冬の日差しに照らされて淡く赤い。

綾は思わず目を逸らした。


指を取って、そっと包帯をほどく。

傷口はもう塞がっていた。

けれど、そこに残る細い線が、

どこか儚く美しかった。


「もう大丈夫ね。」

「でも、まだちょっと痛いかも。」

「どこが?」

「ここ。」


瞬が自分の胸のあたりを指さす。

冗談めかしたその仕草に、

綾の心臓がわずかに跳ねた。


「……診療外よ。」

「わかってます。」


綾は笑って誤魔化す。

でも、笑いながらもわかっていた。

“ほんとうに痛いのは自分のほう”だということを。


沈黙。

外の風がガラスを揺らし、

カーテンの影が床をかすめた。


「先生、」

「なに?」

「今日、このあと時間ありますか?」

「……どうして?」

「お礼がしたくて。ランチ、奢らせてください。」


「だめよ。」

「どうして?」

「患者と医者がそんな関係になったら、面倒よ。」

「でももう、傷は治ったから。」


言葉が詰まった。

瞬の瞳がまっすぐにこちらを見ている。

逃げ場を失ったような静かな圧。


「……一食だけよ。」

「はい。」


ふたりは、

診療所の近くの小さなカフェへ向かった。

窓際の席、

ストーブの音がかすかに響く。


紅茶の湯気の向こうで、

瞬が笑って言った。


「先生、こうしてるとほんとに普通の人みたいですね。」

「私、そんなに怖かった?」

「ううん。ただ、いつも白衣の下に“壁”がある気がして。」

「壁?」

「誰も触れないようにしてるような。」


綾は少し考えてから、

ティースプーンを回した。


「……壁を作らないと、人は壊れるのよ。」

「でも、壊れたらどうなります?」

「誰かが泣くわ。」

「その誰かが、自分でもいいのに。」


瞬の声は静かで、

でも真っ直ぐだった。

その言葉のあと、

湯気の立つ音しか聞こえなかった。


綾は視線を落とした。

彼女の若さが眩しかった。

まるで、

忘れていた時間を目の前に見せつけられるようで。


(私はこの子を見ていると、自分を責めたくなる。)


彼女の笑顔を守りたい。

でも、惹かれてしまう自分が怖い。

同性であること。

年の差。

立場。

どれも理由にならないのに、

理性が必死に言い訳を探している。


「先生、」

「なに?」

「前より笑うようになりましたね。」

「……そうかしら。」

「はい。前はいつも、どこか遠くを見てた気がします。」


綾は口元に手を当てて、

小さく笑った。

「あなたに言われると、くすぐったいわね。」

「僕、褒めるの上手ですよ。」

「知ってる。」


店を出ると、

風が冷たかった。

街路樹の影が長く伸びて、

遠くで冬鳥が鳴いていた。


「送ります。」

「いいわ、近いから。」

「送ります。」


頑ななまでの言い方に、

綾は小さく笑った。


道の途中、

信号待ちで並んで立つ。

その距離は、

指先ひとつぶんだけ空いていた。


風が吹いて、

彼女の髪が頬をかすめる。

その瞬間、

瞬が小さく息を飲んだ。


(触れたい。)

けれど、

その一線を越えたら戻れない。


信号が青に変わり、

ふたりは歩き出した。


「また、来週診せに行きますね。」

「もう通院の必要はないわよ。」

「経過観察です。」

「……あなた、ずるいわね。」

「先生もです。」


綾は何も言えずに笑った。

ほんの少し、涙が滲んだ。


風が吹き抜け、

二人の影が重なりかけて、また離れた。

それでも――

その“ぬるむ距離”の中に、

たしかな恋の温度が宿っていた。

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