第19話 夜に咲く理性

診療所の窓を閉めると、

外の空気は秋の冷たさをまとっていた。

夜風がカーテンをゆらし、

紙の匂いとアルコールの香りが部屋に漂う。


机の上にはカルテの山。

その間に、屋台でもらった小さな瓶があった。

淡い琥珀色の無花果ジャム。

蓋を開けると、

甘くて少し酸っぱい香りがふわりと広がる。


(……本当に、変な子。)


市場でのあの笑顔。

誤魔化そうとする仕草。

誰かに見せたくないほど、

心の奥で光るものを持っている。


年齢差なんて、

普段は気にしたこともなかった。

だけど瞬と話していると、

まるで“自分が年を取った”ことを思い知らされる。


彼女の言葉のひとつひとつが、

新鮮で、まっすぐで、

そして危ういほど温かい。


――ああ、この子は、まだ未来を怖がっていない。


羨ましさと、愛しさ。

そのどちらともつかない感情が、

胸の奥に沈んでいく。


(私は、何をしているのだろう。)


あの笑顔を思い出すたびに、

心が少し浮く。

それを否定するたびに、

理性の奥で“寂しさ”が顔を出す。


綾は椅子に座り込み、

掌を見つめた。


この手で何人の命を救ってきたのだろう。

けれど――

“愛したい人”の手を、

いつから握らなくなったのだろう。


ふと机の端に置かれた診療記録に目が止まる。

「同性愛による抑うつ傾向」――

かつて書いた、若い患者のカルテ。

医師として冷静に向き合ったはずだった。

けれど今、

その文字が胸に刺さる。


同性を好きになること。

あの頃は“特別なこと”だと思っていた。

だけど、

瞬を見ていると、

その「特別」が少しずつ溶けていく。


好きになる理由に、

性別なんて本当はいらないのかもしれない。

頭ではわかっている。

けれど――


(彼女にとって、私は何?)


瞬の笑顔の奥に、

自分の影が映る気がした。

師でも、母でも、恋人でもない。

そのどれでもなく、

どれにもなれない距離。


もし私が年下なら。

もし、彼女が男だったなら。

もし、世界がもう少し優しかったなら――


そんな“もしも”ばかりが、

胸の中で小さく光る。


けれど現実は、

あまりにも静かで、

残酷なほど正確だ。


綾はジャムの瓶を手に取り、

スプーンでひとすくい舐めた。

甘い。けれど少し苦い。

舌の奥に残る酸味が、

自分の気持ちそのもののようだった。


「……まったく。」


誰に言うでもなく笑った。

理性の仮面をかぶってきたはずなのに、

こうして夜になると、

簡単に外れてしまう。


瞬の声が耳の奥に残っている。


「先生が見ててくれるなら、火は消えません。」


その言葉が、

こんなにも胸を焼くなんて。


(だめよ。

 あなたは私の患者でも、弟子でもない。

 でも、恋人にしてはいけない人。)


けれど、

“好きになってはいけない”という言葉ほど、

人を好きにさせるものはない。


月明かりが窓辺に差し込み、

白衣の袖を照らした。

綾はそっとその袖を握りしめた。


――医者としての自分が、

 女としての自分を縛ってきた。


でも今、

少しだけ解けた気がした。


「……もう、隠せそうにないわね。」


夜の静けさの中で呟いた声が、

思ったよりも柔らかかった。


窓の外では、

金木犀が静かに散り始めている。

香りが風に乗って、部屋に流れ込む。

甘くて、寂しくて、

それでも確かに生きている匂い。


綾はゆっくりと目を閉じた。


明日も会ってしまうだろう。

理性が止めても、

心が求めてしまう。


恋の名をまだ知らないまま、

それでも――

確かに恋に落ちている自分を、

もう否定できなかった。

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