第18話 火を見つめる夜


夜の台所には、

鍋がひとつと、静かな火だけがあった。

市場の片づけを終え、

いつものように食材を整理しながら、

私は今日の光景を何度も思い出していた。


綾さんと歩いた公園。

金木犀の香り。

笑った顔。

風に揺れる髪の隙間から覗いた横顔。


あの時間のすべてが、

心のどこかに貼りついて離れない。


スプーンを落とした拍子に、

鍋の湯気がふわりと上がった。

無花果のジャムを煮詰めている。

甘い香りが部屋の隅々にまで広がって、

まるで今日の午後をもう一度閉じ込めているみたいだった。


「人気ね」と言われたとき、

私は少しだけ息が詰まった。

からかうような声だったのに、

その奥にある微かな棘を、たしかに感じた。


――嬉しかった。


彼女が私を見てくれている。

ほんの少しでも、

“誰か”として意識してくれている。


それだけで、

胸の奥がくすぐったくて、痛かった。


私は火を弱めながら、

無意識に口元を押さえた。


(私、まさか……嫉妬されて嬉しかったの?)


そんな自分が、可笑しくて哀しかった。

恋なんてもうしないと思っていた。

好きになることは、

誰かを失うことと隣り合わせだから。


でも――綾さんは違った。


彼女の周りには、静けさがあった。

誰かを救おうとする人の、

祈りのような優しさ。

その中で、私の心だけがざわついていた。


あの白衣の袖に、

今でも時々、血の跡が見える気がする。


“この人は、いつも誰かの痛みを抱えている”

そう思った。

だから、そばにいたいと思った。

癒したいとか、支えたいとか、

そんな言葉じゃ追いつかない。


火の明かりが、ゆらりと揺れた。

鍋の中のジャムがとろりと泡立つ。

その音を聞きながら、

私は手のひらを見つめた。


――この手は、誰のために火を灯しているんだろう。


昔、葉月さんが言っていた。

「恋と料理は似てる。

 手を抜けば味が死ぬし、

 火を強くすれば焦げる。」


あのときは意味がわからなかった。

でも今なら、

少しわかる気がする。


恋もまた、

火加減を知らないと壊れてしまう。

だから、私はまだこの想いを

強くしすぎないようにしている。


“焦がしたくない”。


そう思った瞬間、

心臓が強く鳴った。


たぶん、もう気づいてしまっている。

これは、恋だ。

けれど、言葉にしたら壊れてしまいそうなほど。


外では、風が金木犀を揺らしていた。

窓を少し開けると、

あのときと同じ匂いが部屋に流れ込んでくる。


(綾さん、今、何してるんだろう。)


きっと、もう寝ているだろう。

けれどもし、同じ空の下で、

少しでも今日のことを思い出してくれていたら――

それだけで十分だった。


スプーンをすくって、

仕上がった無花果のジャムを味見する。

甘くて、ほんの少し苦い。


「……まるで恋の味。」


独り言が、静かな部屋に溶けていった。


火を止めると、

鍋の中の表面に

秋の夜の光がやさしく映っていた。


ふと机の端に置いていた包丁の刃が、

淡い月明かりを反射して光った。

その光が、なぜか綾さんの瞳に似ている気がして――

私は思わず、目を閉じた。


(好きになってはいけない人。

 でも、好きにならずにはいられない。)


月が昇りきった夜。

私は火を消して、

長い息を吐いた。


それでも、

鍋の底にはまだ小さな熱が残っていた。

まるで、

冷めきらないこの想いのように。

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